「西洋音楽しか知らずに育った日本人」という感慨はとっても昭和な感じがする

幕末から明治に洋楽伝習を命じられた人たちは、新奇な音を身につけるのに相当に苦労したことが知られているし、

学校唱歌は「校門を出ず」と言われていたらしいので、牧師の家に生まれる、とかいうことでもなければ、明治時代に洋楽を子守歌に育つのは難しかろう。(「八重の桜」じゃないけれど、佐幕派の士族がクリスチャンになる例が多かったとも言われるので、そのような家に生まれた場合に「洋楽一筋」を運命として受け入れる意識は強かったかもしれないけれど。)

そして大正時代でも、生まれたときからピアノやヴァイオリンの音で育つのは相当ハイカラなブルジョワでしょう。

ラジオとレコードが普及する昭和にならないと、「西洋音楽しか知らない日本人」は誕生しないと思うし、戦前はラジオやレコードもまだ高価なので、「日本音楽を知らない日本人」という感覚が普通になるのは、GHQさんがやって来て、北米文化をDDTのように大量散布して以後だと思う。

(ちなみに小泉文夫は、東大音楽部でヴァイオリン弾いていたハイカラなインテリさんがあとから民族音楽に転向したのであって、彼の個人的感慨は、世代の一般的な認識じゃないですからね。大金持ちの團伊玖磨は言うまでもなく。)

そして生まれたときから「ニッポンは先進国」という意識で育った平成生まれにとっては、西洋vs日本、という枠組み自体が消失して、全部「音楽」だと思う。

「西洋音楽しか知らずに育った日本人」という感慨を胸に抱いて生きる、というのは、現在の40代以上(上限は既に90歳近く物故者多数)にしか成り立たない期間限定の自己認識だと思います。

だから、その認識を元手にして何かを「提言」しても、届く範囲は限られていると思うよ。

もう40過ぎたオッチャン、オバチャンなので、今さらココロとカラダに新しいことを受け入れる気はないかもしれないけれど、そんなに自分の限界が気になるんだったら、とりあえず文楽でも行ってみたら。せっかく大阪に住んでるんだし。

「日本音楽いかにあるべし」って、よく知らないものについて、紙の上で悩んでもしゃーないやんか。

(ものすごい偏食で、嫌いなものは、屁理屈だろうがなんだろうが言い訳連発で遠ざけようとする人が、今さら文楽には絶対行かないであろうほうに私は賭けるが、それと同時に、他人に影響されやすいブランド好きのキャラでもあるので、岡田暁生あたりに「これからは日本音楽だ、一晩つきあえ」とか言われて、しかも、その場に呂勢大夫なんかもいた日には、掌を返したように「鶴澤清治はまことに素晴らしい」と言い出して、SP復刻の義太夫の名盤を聴きまくるであろうことを予言しておこう(笑)。あなたはそういう人だ。豊竹山城小掾のように、いかにもレコード好きがハマりやすいタイプの伝説的な大名人がいるしね。シュナーベルとかモンクとか言ってる人は、いずれそうなる。

「秋の夜長に、鹿の遠音を楽しみたい季節になった。山本邦山のユリに耳を傾けるうちに、ふと、武満徹を聴いてみたくなる[以下略]」とか。

そういう備えをしておけば、秘密保護法で戦争になって外国の情報を遮断されても生きていけるね。)