「聴き合う」とはどういう状態か?

AとBという2人の人物がいて、日本流に言えば目上であるAが話しているときに、Bが控え目にハイ、エー、なるほど、と相槌を打っていたとする。

Bは、本当にAの言うことを聴いているのか、それとも、相手に逆らうことなく従順なだけなのか。

AがBの言うことをちゃんと聴いており、なおかつ、次のシーンでは、語り手と聴き手の立場が入れ替わる等々ということが起きてはじめて、人はそれを「聴き合う」と呼びうるわけだが、とりあえず、もうしばらく、その手前の段階である冒頭のモデルにこだわってみよう。

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室内楽でいえば、これはすなわち、音楽家Aが流麗なメロディーを奏でて、音楽家Bが分散和音などの単純で定型的な動きを添えている状況に相当するだろう。

このとき、音楽家Bが、本当に音楽家Aを「聴いている」かどうかを判別するためには、全体の音量バランス等をチェックするだけでは不充分であることは明らかであろう。Bが、Aの「邪魔をしていない」だけかもしれないからである。

そこで起きていることを把握するためには、われわれは、音楽家Aのメロディーと音楽家Bの、それよりはるかに控え目に演奏されている定型的な動きの両方を同時にモニタリングするように「耳」を調整しなければならない。

そして、たとえば、音楽家Aが音のリズムや上がり下がりに細かく表情をつけて、なおかつ、メロディーの特定の箇所に頂点を置くような歌い方をしており、一方、音楽家Bの定型的な動きに、(常にメロディーの陰に隠れるような抑えた音量ではあるけれども)明らかに音楽家Aのメロディーと無関係なタイプのデコボコが認められる場合、われわれは、音楽家Bが、音楽家Aを「聴いている」のとはいささか異なる状態なのだろうと判断せざるを得ない。

たとえば、音楽家Bが、「ドミドソ ドソドミ」(中庸なテンポですべて8分音符&レガート)という動きで、メロディーの動きとは関係なく低い「ソ」の音をいやに慎重に弾いているとしたら、それは相手を「聴く」余裕なしに、運指や楽器の都合でそのように挌闘している可能性を疑わざるを得ない。しかもこのとき、音楽家Aが1小節(=8分音符8個分)もしくは2小節(=8分音符16個分)でメロディーを大きく捉えていたり、小説の最後の拍での和声の変化に敏感に反応しているにもかかわらず、音楽家Bが、常に8分音符を4つずつグルーピングして弾いていた場合、彼はメロディーを「聴いていない」と判断せざるを得なくなる。

(とはいえ、「伴奏」役が、いかにも「メロディーをちゃんと聴いてますよ」といわんばかりにテンポが伸び縮みさせたり、大げさに表情をつけたら、音楽が軟体動物のようにぐにゃぐにゃになるから、相手を聴きながら自分のペースを守らなければならないが、ともあれ、そういう風に相手を聴いている状態と、相手をまったく聴いていない状態の違いは、わかってしまう……場合がある。演劇の舞台で、相手の台詞を聞いて応答しているかどうかで、芝居が変わってくるように。)

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この状態が何に似ているかというと、学校の教室での宿題の答え合わせに似ていると私は思う。

先生(音楽家A)が、教壇から順番に生徒を指名して、算数の宿題の答えを言わせている。でも、オレ(音楽家B)は宿題をやってない。ピンチである。

でも、この先生はいつも出席番号順に当てるから、オレは「問5」が回ってくるのがわかっている。オレは必死で、答え合わせをしている風を装いながら(=ときどき顔を上げて板書を写したり、先生の言うのに相槌を打ったりしながら)、大急ぎで「問5」を解く。

あと2人、あと1人……、よしできた、間に合った。

先生「じゃあ、次。「問5 ××○○を証明せよ」。Bクン」

Bクン(=オレ)は、何ごともなかったかのようにスラスラ答える。

音楽家Bが「ドミドソ ドソドミ」を上の空で弾いている状態が、こっそり授業中に宿題をやっている状態、Bクンがすらすら「問5」に答えるのは、そのあとに出てくる、役割交替して音楽家Bがメロディーを受け持つ場面と考えればよろしい。

教室(アンサンブル)では、教壇の先生から見えないところで別のドラマが進行してしまうことがあるわけです(笑)。

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一般に、合奏の編成が大きくなればなるほどこの種の「内職」で各奏者が人知れずやりくりすることが多くなり、編成が小さくなればなるほど、「内職」がバレる可能性が高くなる。

あらかじめ綿密に打合せすれば、「ここは私(音楽家A)がゆったり穏やかに弾き続けるけれど、キミ(音楽家B)は、この小節のここのフォルテで、私の邪魔をして割り込むように入ってきてくれたまえ」とか、ちょうど掛け合い漫才の稽古のように段取りを細かく決めておくことができるけれど、段取りをそのとおりやれば本番は大丈夫、というわけではない。

オケのなかで弾くときはこれくらいで大丈夫だけど、コンチェルトのソロやアンサンブルを同じ気持ちでやると酷い目に合う。オケのコンマスが必ずしも良い室内楽奏者とは限らないことがしばしば起きるのは、おそらくこういう事情による。両方できる人もいるけれど。

そしてなんつったって、泉州・河内を背景に背負った大阪は、ニワカ・万才のメッカでございますれば、この種のやりとり、「聴き合い」に対する評価は厳しい(笑)。わたしらは、新喜劇(大所帯のいわば笑いのオーケストラ)と漫才(笑いの室内楽)の区別とか、そういうのを文化の基本にしとりますから。(そして大阪で国際的な室内楽コンクールがあるのは、その意味でなかなかいいことなのかもしれない……。)

モーツァルトのコンチェルトやアンサンブルを弾くと、そのあたりの力量が丸見えになるわけで、それはちょうど、吉本や松竹の劇場に立つ「恐さ」に似ているかもしれませんね。

音楽家Bの「ドミドソ ドソドミ」は、卒なく役割(段取り)をこなしてはいるけれど、鋭くツッコミを入れてくる音楽家Aの相方としては、やや「位負け」。