完璧に構成された作品、という理念を弄ぶ人は「わたし絶対に間違わないですから」なのだろうか?

ウェーベルンの楽譜にだって「校訂」が入る、これをどう説明するのか。

完璧だって? それを考え、語るために必要十分な装備とは何であり、その装備が手元にあるのか、というのが一点。

考え得るあらゆる装備を整えてから行動した者と、とにかく行動せねばならなかった者がいるとして、どっちがどうだ、と論評するのは好き嫌いの問題なのか、というのが一点。

どちらが、より「うつくしい」か。知らんよそんなこと。