「助手席」という名の保守

「助手席感/助手席性」なる言葉を学んだ。

ユーミンの罪 (講談社現代新書)

ユーミンの罪 (講談社現代新書)

要は、八王子の呉服屋の娘が「保守」の水先案内人になった、という話なのだけれど、ウーマンリブからフェミニズム、男女共同参画の時代なので、その立場の表明も、彼女がそういう人だったという指摘も、本書のようにもって回ったものにならざるを得ないということですね。

ユーミンというと、自立した強い女性であり、時代の開拓者というイメージがあります。しかし彼女は、単独でツルハシを握って世を拓いてきたわけではない。パートナーが常に存在し、舵取りをするパートナーの助手席にいながら開拓を続けたからこそ、その姿勢は痛々しくならなかったのです。ユーミンファンの中には、その助手席感に共感する女性も多かったのではないでしょうか。(53頁)

「参加しないが、共にいる」という助手席性においてもう一つポイントとなるのは、「女は男を常に見ている」というところです。いかにも男の子っぽい行動に夢中になっている「彼」を女は見つめており、見つめるという行為に彼女は満足している。[……]ユーミンの歌が抱く助手席性。これは、ユーミン自身の主体性云々を示すものでは、決してありません。[……]それは、スキーやサーフィンをしている彼が好きというより、スキーやサーフィンをしている彼を持つ自分が好き、という感覚です。(65頁)

強い助手席性を持つ女性達は、無理矢理車に乗せられたわけではありません。自分で車は運転しないにせよ、どの車の助手席に乗るかは、自分で選ぶ権利があった。恋愛と自己愛が分かちがたくなってきたそんな時代背景を、ユーミンは捉えているのです。(66頁)

この時代、女は男を「見て」いました。助手席から、浜から、ロッヂから、そして別れた後はかんらん車から。しかしそれは、ただすがるように見ていたわけではない。「この男は、私に価値を与えてくれるのか」と女達は見定めていたのであり、彼女達のそんな男性を通して深める自己愛が、この先もどんどん肥大していくことを予感させるのでした。(68頁)

そこのキミ、見られてますよ。「世界は舞台、自動車は舞台」なのです(笑)。

わたしは、そもそも自動車の運転ができず、公共交通機関(都市部におけるその充実は70年代革新首長たちのおかげであるとされている)で単独行動でどこへでも行くので、他人を乗せて運転する、という発想がないし、強いて言えば、わたくしを助手席に乗せて運転してくださるという奇特な方がいらっしゃるとしたら、それは有難いことに違いないと想像することはできますが、どちらかというと、自力で行くから「現地集合」にしてくれたほうが気が楽かもしれぬ。

「若者達が自動車を所有するのが普通だった時代」には、助手席に乗せて貰ったときに地図を片手に「ナビ」をする、という暗黙の風習がありましたが、わたしゃ、自動車などという恐ろしい乗り物にはできれば近寄りたくない人間なので、そういう気の効いたサポートをやる気はない。狭い駐車スペースに入れるときに、こちら側の窓開けてガイドする、とか、降りてバックする具合を指図したりとか、自動車は、乗せて貰うほうも気を遣って大変ですよね。

(あと、運転してる人間の車選びのセンスを誉める、とか、付随して「クルマ文化」には色々ありましたよね。こっちは何の興味もないので困る……。みんな、どうしてそんなにクルマが好きなのだろう。何かのメタファーとして愛でているのか(まあ、そうなんだろうけど)。)

で、「お前は乗せてやらない、降りろ」と言われたら、別にそれで不都合はないので、次の日からは切符買って電車に乗る。

自動車に乗らない者は人間じゃない、という思想がひょっとするとこの世の中のどこかにありそうな気はするが……、自動車で移動してばっかりだと、歩かないから太るよ(笑)。

しかし、クラシック音楽も遅ればせながら「アメリカナイズ」(死語か?)されると、「助手席」のメタファーが有効になるのかな。めんどくさいことである。てめえで運転しろor自転車で後ろついてこい、と言いたくなりそうだが……。

でも、アメリカという自動車の「助手席」はラクチンだもんね。

(そしてしかし、葉山あたりに住んでるボンボンが、そろそろボクも自分で運転したいと言い出しているんで、周りは大丈夫かいな、と思ってるわけだが、「彼女」は率先してそのスポーツカーの「助手席」でナビするわけだ。21世紀のグレート・ギャツビーだね。結末がフィッツジェラルドの小説みたいになるのか、ならないのかは……まだこれから。)