詩と音楽と舞踊:バレエ重要

また、今年9月にはフェスティバルホールの広い舞台を活用した「コンサートオペラ」を井上道義の指揮・演出により開催しましたが、来シーズンは井上が得意とするバレエ音楽を、東京バレエ団を招いてコンサート形式で開催。「祝祭のボレロ」と題し、井上道義の斬新なアイデアが発揮される新企画を、お楽しみ頂きます。

大阪フィルニュース : 大阪フィルハーモニー交響楽団 - Osaka Philharmonic Orchestra

バレエについては少しずつ勉強中で、日々色々思っているところなので、「やっぱり来たか!」と思いました。

東京バレエ団といえばベジャールですよねえ。

ベジャール/東京バレエ団「ザ・カブキ」 高岸直樹/上野水香 [DVD]

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黛敏郎の音楽は録音を使っていましたが、春の祭典を生オケでやった記録も出ている。

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前にも少し書いた気がしますが、今年は、舞曲の歴史を概説する授業を担当しております。

ひとつは、パヴァーヌとかメヌエットとかワルツとか、20世紀のダンスホールへつながっていく社交舞踊(いわば「参加するダンス」)。

舶来音楽芸能史―ジャズで踊って

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めぐりあうものたちの群像―戦後日本の米軍基地と音楽 1945‐1958

めぐりあうものたちの群像―戦後日本の米軍基地と音楽 1945‐1958

全身を使って飛び跳ねる「民衆の踊り」と差別化して、宮廷舞踊が「文明化」したかと思えば、19世紀にフォークロアから色々なものを汲み取って、20世紀にジャズだ、ラテンだ、ヒップホップだ、ということになるわけですから、ダンスは社交(人づきあい)の意味だけでなく「社会的(ソシアル)」ですよね。

そして、もうひとつ、劇場舞踊(いわば「見るダンス」)というのがある。

Pina / ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち コレクターズ・エディション [DVD]

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こちらは、社交舞踊から分化したとも言えるし(=クラシック・バレエの技術や用語はヴェルサイユの宮廷舞踊に遡ることができるみたい)、ルネサンスや初期バロックの歌あり踊りありの祝祭(オペラの母胎にもなったような)から、いわゆる「バレエ」として舞踊が独立したと見ることもできるようで(ballet(仏)の語源 ballo(伊)は祝祭の舞踊部分を指す言葉だったらしい)、これも20世紀にはアヴァンギャルド(バレエ・リュスとか戦後のタンツテアターとか、いわゆる「モダンダンス」)やエンターテインメント(宝塚にもミュージカル・コメディーにもダンスは欠かせない)につながっていく。

バレエとダンスの歴史―欧米劇場舞踊史

バレエとダンスの歴史―欧米劇場舞踊史

社交舞踊/劇場舞踊という区別はこの本を参考にしました。

ポピュラー音楽論でもよく援用されるベッセラーの「共同体音楽/展示音楽」という区別は、ひょっとすると、彼が音楽を単独で考えるのではなく、中世・ルネサンスの音楽を含み込むような舞踊の展開を見ることで出てきた概念セットじゃないか、という気がしますし、

アートの「身体性」とか、「総合芸術」とか、20世紀やその直接の前提だけを視野に収めて熱く語っても、なかなか、地に足がついた議論にならない諸々は、愚直に舞踊の歴史を整理することで、かなり見通しがよくなるんじゃないかと思っています。

栄華のバロック・ダンス―舞踏譜に舞曲のルーツを求めて

栄華のバロック・ダンス―舞踏譜に舞曲のルーツを求めて

個人的には、もうちょっとカジュアルにヨーロッパの舞踊の歴史にアプローチする本があればと思うのですが……。「華麗なるヨーロッパ」を仰ぎ見る感じじゃなくて……。

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それに、

先日もモーツァルトがパリで作曲したバレエ音楽の抜粋を金聖響と日本センチュリーがやっていましたが、グルックやモーツァルトのオペラのなかのバレエはいったいどんな踊りだったのか?

ベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」のサルバトーレ・ヴィガーノって何者なのか?

Lully/Moliere - Le Bourgeois Gentilhomme / Lazar, Le Poeme Harmonique, Dumestre

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日本語版はもう品切れみたいですが、モリエール/リュリのコメディ・バレエをこんな風に素敵に復元できるんだったら、18世紀のバレエ・ダクシオンも何とかならないものだろうか、と夢想してしまいます。

そしてグランド・オペラの出発点マイヤベーアの「悪魔ロベール」の呼び物だったとされる第2幕の尼僧たちが棺桶から次々蘇るバレエ・シーンは、今では有名な舞台画でしか見る機会がありませんが(オーソドックスな演出でこの作品が上演されることないですよね?)、この場面の好評を受けて量産されたとされるパリ・オペラ座の白い衣装の女性の群舞(「バレエ・ブラン(白いバレエ)」と呼ばれるらしい)は、マリウス・プティパの振付がヨーロッパに還流して復活した「ジゼル」などで見ることができるわけですよね。村の現実と森の夢幻を対照するロマン主義を今でもストレートに舞台で見せるのは、バレエくらいですから、19世紀の音楽を勉強する人は、全員バレエを観るべきではないか、と思う。

ジゼル 全2幕 [DVD]

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1831年の「悪魔ロベール」から普仏戦争でこの種の出し物が途絶えるまでの時期が「ロマンティック・バレエ」の時代とされるようですね。19世紀の人たちの見た妖精や海賊は、オペラやオーケストラでそれを本気で感じ取るのが難しくなった今でも、バレエのなかに辛うじて生き延びていると考えていいのかもしれないと思ってしまいます。

あるいは作曲者の死後のマリウス・プティパによる「蘇演」が伝承されている「白鳥の湖」の初演の舞台はどんな風だったのか?(復元の試みがなされたことがあると読んだ気もするのですが、舞台込みで映像化されていたりするのでしょうか。)

永遠の「白鳥の湖」―チャイコフスキーとバレエ音楽

永遠の「白鳥の湖」―チャイコフスキーとバレエ音楽

写真や映像を含む直接・間接資料と証言が色々残っているバレエ・リュスの演目を「復元」する試みが過去10年くらい熱心に行われて、秋には新国のバレエでもそういうのがあったようですが(行きたかったのですが無理でした)、

「原典版」とか「ピリオド・アプローチ」とか、「作品が生まれたばかりの姿」への好奇心旺盛なクラシック音楽クラスタの方々向けに、解明が待たれている「大作曲家たちのバレエ」が、た〜〜〜〜〜くさん残っていると思うんですよね。

(「役人」「ヴェルキス」「ダフニス」の可能なかぎりオリジナルに近い振付による舞台とか、あったら吹奏楽の皆さんも観たいだろうと思うし。)

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それから、

今では「バレエを指揮する国際的マエストロ」というと、キーロフ(マリインスキー劇場)のゲルギエフくらいですが、ちょっと前まで、みんな劇場の指揮者はバレエのピットにも入っていたわけですよね。

朝比奈隆時代の関響/大阪フィルはとてもたくさんバレエ公演に参加していて、しかもバレエ団体が新作の音楽を名だたる作曲家に委嘱しています。(大阪フィル顧問(元事務局長)の小野寺和爾さんが、朝比奈隆の各種指揮記録や関響の映画音楽演奏記録に続いて、1948年〜2012年の「バレエ団との共演記録」をまとめた冊子を編集してくださっています。)

日本の「洋楽史」のなかで、放送音楽は調査が軌道にのりつつあるようですが、バレエ・舞踊はこれからです。

参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20131005/p1

大栗裕も、譜面はあまり残っていないのですがバレエ音楽を少なくとも8つ書いたようですし、他にも舞踊のための音楽がたくさんある!

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そしてバレエは、今でも色々「お約束」が残っているところが興味深いと、わたくしには思えてしまう。

天下のゲルギエフですら、黒鳥オディールの「32回のフェッテ」のところは必ず拍手が入るから曲を一度止めちゃいますが、いかなるアリアのあとでも絶対に曲を止めないリッカルド・ムーティみたいな指揮者が、そのうちバレエにも出てきたりして……。それはないか。

チャイコフスキー:バレエ《白鳥の湖》 [DVD]

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あるいは、バレエに「読み替え」振付はダメなのか(笑)。

少女クララの四角く区切られた寝室の中だけで展開する「くるみ割り人形」(花のワルツのコール・ド・バレエは壁の裏で踊って客席からは足音しか聞こえない、そもそも、クララは反抗期でクリスマスのプレゼントとか、そんなオトナたちのお仕着せをまったく喜んでいない)、とか。

教室では影の薄いイジメられっ娘のオデットが、実は北関東連合の女番長オディール様であるような「クラスルームの白鳥の湖」とか。

オペラの演出は、今ではもはや「何でもあり」になってしまった感じですが、クラシック・バレエがなぜこうであって、様々な伝統が残っているのか。オペラと同じように自由でいいんじゃないか、ではなく、どうしてそうならないのか、というところを知りたい気がします。コンヴィチュニーの薫陶を受けた演出家さんたちは、そこへこそ飛び込んで行くべきかもしれない……。

舞台芸術の「見せ方」を考えるときに、「現代の感覚」と「ドラマとしてのつじつま・説得力」という2つを押し通すだけでは立ちゆかない別の何かがあるはずで、オペラは今ではかなり物わかりよく「現代感覚」の「ドラマ」重視になっていますが、バレエはそうでもなくて、わたくしたちは、バレエの「型」を崩さない姿勢(ヨーロッパのメジャーな文化・芸能では珍しいかもしれない)から学びうることがあるのではないかと思うのです。

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アホなことばっかり言っていると、バレエの熱烈なファンの方、今真剣に取り組んでいらっしゃる方々に怒られてしまうかもしれませんが、阪神間といえばバレエだ、という説もあるようですし、こういうアホはほっといて、上手く連携できれば、面白い展開があり得るんじゃないでしょうか。

ルドルフ・ヌレエフ振付・演出「眠れる森の美女」プロローグ付3幕 [DVD]

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第1幕のプティパらしい形式美と言われるワルツとか、アダージォで4人の王子様がオーロラ姫の手を取って回る、とか、たしかに音楽だけでなく、舞台あってのバレエだと思う。

参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20121008/p1

前にこの文章を書いたのは、ちょうど、来年舞曲史の授業をやってください、と言われて勉強しはじめた頃だったのでした。

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1670年にルイ14世が踊らなくなるまでは、ballet と呼ばれた祝祭の出し物で専門の舞踊家と貴族たちが一緒に踊っていたとされ、同年10月のコメディ・バレエ「町人貴族」は、踊らなくなった王様に観客として楽しんでいただくための新趣向だったとされるようです。

おそらくこのあたりが社交舞踊と劇場舞踊の分化のメルクマールだと思うのですが、このあとも、タリオーニ父子の登場でポワント技法のロマンティック・バレエの時代になる、とか、パリにペテルブルクからロシア人が大挙してやって来ることで20世紀の扉が開かれるとか、舞踊の歴史は、「特定の身体」(王であったり、舞踊家であったり、民族であったり)の登場で一挙にシーンが変わるとされることが多いようです。

事実として「特定の身体」が決定的なのか、それとも、特定の身体が決定的であると「物語る」ことが舞踊を舞踊たらしめている、と言うべきなのか。

いずれにしても、「聴覚文化」の話にせよ、伝統的な音楽劇や歌謡にせよ、音楽は一方で言葉と結び付くことで広い世界へと媒介されて、もう一方で、このようでしかありえない「この身体」に条件付けられていることを知らされるのが舞踊なのかもしれませんね。

西欧近世宮廷の「美しい諸技芸」は、ギリシャを神話的に賛美しながら詩と音楽と舞踊の幸福な結び付きを言うわけですが(戯曲も韻文が基本だったのでこの場合ドラマ・演劇も詩に含まれる)、その枠組みにおける音楽という目に見えない技芸は、詩と舞踊に挟まれることで辛うじて存立していたのかもしれないなあ、と改めて思います。

そう考えると、舞踊のみならず合唱も最小限にしちゃったワーグナーは、ドラマとしても音楽としても壮大だけれども、舞台芸術としては極端な「個人主義」で、実は構想がかなりアンバランスですよね。見えないものをめぐる瞑想・メランコリアが肥大している。

そうして20世紀を視野に収めて、西欧の外のことまで考えると、「詩と音楽と舞踊」という理念はどういう位置づけになるのでしょう。

(同じ話を美や感性の問題として展開することも可能なのでしょうが、やっぱ私は、こんな風に諸ジャンルが交流する「ゲージツ論」的な方向に話をもっていくほうが面白そうと思ってしまいますね。これはもう、個人の向き不向き・好き嫌いだと思いますが。)