『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』はなぜ私を脱力させたのか?

フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか (新潮新書)

フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか (新潮新書)

本屋で序文と目次だけ立ち読みして、「この本を音楽書としては出したくなかった」という、著者のシビレる決めぜりふ(失神しそう)だけ読んで買わなかったので、内容については書かない。

浦久俊彦 ウラヒサ・トシヒコ
1961(昭和36)年生まれ。音楽プロデューサー。高校卒業後、19歳で渡仏。パリで音楽学、歴史社会学、哲学を学ぶ。フランスを拠点に作曲、音楽研究活動を行う。2007年に三井住友海上しらかわホールのエグゼクティブ・ディレクターに就任。

https://www.shinchosha.co.jp/writer/4755/

きっと、キラキラにグローバル人材なスーパーエリートさん、なのよ!(あくまで何も知らずに本とプロフィールを見た印象に過ぎませんが。)

未来予測1:某氏あたりが、もうじき、絶妙に肩の力の抜けた上手なコメントをブログに載せる。 → [実現したときにリンクを貼るための余白]

未来予測2:某氏あたりがtwitterで自らつぶやく、もしくは、誰かのつぶやきをリツイートする。 → [実現したときにリンクを貼るための余白]

未来予測3:刊行記念か何かのコンサートが開かれる。 → [実現したときにリンクを貼るための余白]

未来予測4:上記3が発表された頃合いで、新聞雑誌の「著者インタビュー」が連発され、さりげなくコンサートが宣伝される。

もちろんそんなことにはならないかもしれませんが、本を手に取った瞬間に「もし本当にそういうストーリー込みの出版だったら出来過ぎくらいによくできている」と思ったので、実現したとしても驚き度はゼロパーセント。やるのであれば、時間がもったいないので、さっさとやっちゃってください(笑)。

早晩企画されるであろうコンサートが、なるほど、と唸らされる内容になっているとしたら、ようやくそこから「音楽」の話になる。

「いかにも」な内容に終始するとしたら、それを含めて、すべてがビジネスとして、ストッロマシンを一度回したのと同じ感じに一巡したんだな、ということで、プロジェクト終了になる。

さて、どっちになるのでしょう。私は、しらかわホールのことも、著者のことも、何も知らないので、何も予想を立てることはできませんし、そんなことのためだけに、一連のプロモーションのサイクルに付き合う気もありませんが、本当にそうなったら、二匹目三匹目のどじょうを狙うところが出てくるんだろうなあ、と思って、そこで気が重いです。

(この企画が何かの拍子で評判になって、関西にも巡演、てなことになったりして……。)

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以上は、そうなるのかなあ、なったら白けるなあ、と想像をめぐらすだけの話ですが、

一般論として、最近の企業系の音楽プロデュースって、どこもそうだけど、コンサートひとつ開くための仕掛けがやたらと大掛かりで、つきあってると疲れるよね。

「お前は700人、800人の上質なお客さんを集めるのがどれだけ大変なことなのか、わかってない!」

と怒られるかもしれないし、確かにわかってないんでしょうけれども、上質な上澄みの数百人を獲得するだけのために、ここまで大掛かりな仕掛けを作って、いったいどれだけの人間がつきあわされとんねん、と思いますやん。

フランツ・リストは若くて苦労した頃に宗教書・思想書を読みふけったようで、王侯貴族とブルジョワの資産でゲージツをやって、レッスンは基本無料だったと聞きますから、必要なものを薄く広く集めるビジネスとは正反対に、局在・独占されていた富の再配分機能を果たした人だと思うのだけれど。

(そのあたりのことが、何かちゃんと書いてあるのだろうか? やっぱり読まなあかんのぉ〜。めんどくさいなあ。そういう風な「動員」の感じが、嫌なんですってば。でも、ほんま、動き始めるミッション最優先で、話の通じへん人たちやからなあ。)

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私は、建物の管理者が興行の主体として前面に出るモデルは一過性で、早晩、別の形に移行すると思っている。建物が固定で、そのうえコンテンツも音楽(しかもクラシック音楽)に決め打ちで、なおかつ、内容の質を保ちつつ経営も安定させるなんて、条件が厳しすぎて、原発を無事故で100年間稼働させるのと同じくらいの夢物語だと思う。よほど強力な「炉心」を確保して、一分の隙もない「動員」態勢を組まないと、そんなの無理だ。

つまり、そんな夢物語を実現しようとしたら、まだしも流動性が辛うじてのこっている「人間」(出演者・スタッフ・観客)に途方もない無理を強いることになる。果たしてそんな終わりのない非常事態を「文化」と呼べるのかどうか、落ち着いて考えた方が良い。

何か強力な「炉心」があって、安定走行できているとしたら、まさにそれは、かけがえのない「卓越性」ですから、大事にしていただければとは思いますけれど……。

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あと、リストが長寿をまっとうできたのは、彼個人の「タレント性」というよりも、王政復古期のウィーンから7月革命後のパリへ、そして産業革命バブル前夜のドイツならびにナショナリズムの勃興するハンガリーへ、と、次から次へと天才的な嗅覚で拠点を移したからだと私は思っています。

そして彼の「女たちを失神させる魅力」は、彼が新しい土地へ転進するときにこそ最大限に活用されていることが、彼の女性遍歴からわかる。彼は、その土地が枯れてきたと思ったら、あっさり女性を乗り換えて、その手引きで新しい土地へ移る。なんというか、酷い奴ですよ。上半身は、19世紀最良の意味での「公正無私な理想主義者」ですけれど……。女たらしで有名だった「憲政の父」伊藤博文が、晩年のリストを聴いて日本へ連れて帰りたいと言った、という逸話は、だから、実によくできた話で、この2人、ウマが合ったんじゃないかと思う。そういう人です、リストは。少なくとも私が知っているかぎりでは……。

伊藤博文―知の政治家 (中公新書)

伊藤博文―知の政治家 (中公新書)

伊藤博文の生涯の「立派さ」成分をびっしり書いてあるので、偉大なるリストの本と合わせて読むといいかもしれない。

だから、リストを単体として面白い読み物の主人公にすることはきっと可能だとは思うのですが、でもこれは、そういう「音楽の本」ではないそうなので、そうなると、予想できるのは(……ということで、話が最初へ戻ります)。

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新書を足がかりに「人」を売り出す、というのはよくあることで、「本当の進化はこれから始まる」で2.0に火を付けたのが新潮新書だったですし、サブカル系オタク系社会科学の若手研究者の博士論文リライトというのも一時期たくさんありました。そういうのは、題材がそれなりに市場規模のあるジャンルだったので、宣伝込みでも、まあ、あり得ないことではないのかな、と思いますが、

数百人規模のクラシック専用ホールのプロデュースって、基本的にとても地道で、「顔の見えるお客様」との信頼を作っていく仕事だと思うのですよ。そういう仕事を展開していくために、全国の書店に配本される新書を媒体として利用する、というのは、そこに巻き込まれつつ「人材」を巻き込んでいく出版社さんにも何かしらのお考えはあるのでしょうけれど、物事のスケールが狂っているような違和感がある。

そういう種類の仕事をしているだけでは惜しい希有な書き手を見いだしたんだ、ということであれば話は別ですけれど……。

(しかしそうなると今度は、たとえば、東大を出て愛知の大学で日本史を教えている先生が、おそらく東京へ呼び戻してもらいたくて、だと思いますけど、文藝春秋から危険球めいた雰囲気を醸し出す啓蒙書を出し、一躍、論壇の寵児になった=「中国化」、という例があるので、世の中はそういうもので、いわゆる「地方」の仕事は、野心ある人にとっては、踏み台でしかないのか、という別の感想が浮かんでしまう……。)

どちらにしても、すごくザワザワした感じが残る。