2013年のまとめ

[「そして2013年度に入ってからの関西各種媒体での急激な露出の増加は、自然に評価が高まったというよりも、事業体の戦略的な取り組み、しかもおそらくは、アーツ・マネジメントの手法というより、即効性が期待できる一般商品のマーケティング手法を全面展開することにGOサインを出すような意志決定が何らかの形でなされた結果とするのが、現状では、部外者からの急激な見え方の変化を説明する最も整合的な解釈だと思われます。」という、文句が出ないように慎重に推敲した推論を所定の箇所に追記。]

まだ掲載紙が手元に届いていないので、他の方がどういうことを書かれたのかわからないのですが、日経に今年の関西の演奏会から3つ選んでコメントする記事を書きました。びわ湖ホールの「ワルキューレ」、いずみシンフォニエッタ大阪の西村朗特集、小菅優のベートーヴェン・ソナタチクルスの今年分(第5、6回)。

音楽シーンを年ごとに区切るのは、とりあえずのこと以上ではないと思いますし、今まで「一年のまとめ」のような文章をここに書いたことはたぶん一度もないと思いますが(年末年始はたいてい仕事に追われていますし)、今年はなんとなく「区切り」感があるので、少し思うことを書きます。

といっても、2013年がなにかまとまった像を結んでいる感じではなく、むしろ今年は妙に色々な「変化」があって、この変化の行き着く先が見えて来つつもあり、2014年から次のフェーズに入りそうな気がする。音楽で言うと、2013年はごちゃごちゃした推移部の終わりのほうで、ドミナントにたどり着いたところ。次の小節=2014年は、トニカで新しい主題がはじまりそうなので、気持ちを整えてその出現を待っているのが「いまここ」、みたいな感じを抱いております。

(去年の今頃、正確には年が明けてからですが、「ああ、父親はほんとにもう秒読みだなあ」となったときの感じを思い出して、同じ季節が再びめぐってきたことで、区切りの感覚が過剰に研ぎ澄まされてしまっている可能性は否定できませんけれど(笑)。)

ちなみに、日経の記事で西村朗特集を挙げたのも、

11月にはサントリー芸術財団が同い年の野平一郎を特集する演奏会もあり、武満徹や黛敏郎に続く戦後生まれの作曲家が、今や人生のまとめを意識しつつある。

と書きましたが、1970年代に仕事を始めた人たちが還暦で、やや長めの周期での区切りが来た、わたくしが最近好きな言い方では「平成がおわった」感を入れたつもりでございます。

(この世代の人たちは、1953年生まれですから、「闇市世代」みたいなゼロからのハングリーなスタートでもなく、大学へ進んだときには68年の騒動が終わっていて、「シラケ世代」とか言われちゃって、セゾン文化でタケミツが華やかにやっているのを仰ぎ見ながら、いよいよこれから、というときにバブルがはじけて、90年代以後の「失われた」とか形容されるデフレ時代に、それでも途切れずに仕事を重ねているわけで、とても「損な世代」だと思うんですよ。

で、せっかく還暦で、振り返ればそれぞれにちゃんと筋道の通った仕事をしているのに、お二人とも、作品展は「恒例行事」枠のなかでやることになって、西村朗は、いちおう特集ですからまだしも、野平さんは、たぶん曲選びと共演者選びと、ご自身の裁量でやれる範囲内のことでしか「30年を振り返る」感を出せなかった形ですよね。

武満徹や黛敏郎みたいに、個人が「芸術家」として組織や団体相手に縦横にやりたいことをやるのではなく、組織や団体が敷いたレールを外れないところで、どこまで「芸術家」をやれるのか、そこにご自身のミッションを見いだしているようなところがお二人にはある。もちろんそれは制約ではあるけれど、そういう「ゲームの規則」のなかでここまでやってるんだぞ俺たちは、というプライドでもあるのでしょう。色々な意味でお二人らしい「還暦の年」だったのかなあ、と私は勝手にそう了解しております。)

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で、わたくし的には2013年は「推移部」ですから、リアルタイムにそこを通過しつつあるときには、その都度いろいろなことを思いましたが、通過したあとで振り返っても、あんまり生産的ではありませんから、次に来るであろう「新しい主題」の話をします。

良い話と悪い話があって、簡単に言うとそれは、「この先、関西のオペラとオーケストラはおそらく上首尾に生き残るだろうけれども、リサイタルなど個人でやる音楽会は、さらに厳しい冬の時代が来そうだな」ということなのですが、わたしはヒネクレ者なので、先に良い話をします。

(仕事の作文だったら、悪い話は先に手早く済ませて、最後を明るい話題で締めるのが常道ですけれど。)

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オーケストラの話は簡単で、10年くらい前に大阪にオーケストラが4つあるのは多すぎる、という乱暴な話が出たときには、4つのオケが仲良く順番に同じ会場で演奏会をやっていたのだから、実は競争はなく平和に「横並び」の体制で、4本の矢(毛利元就より1本多いけど)は1本より強い、みたいな感じがあった。

(4つのオケが「横並び」に見えたのは、大きいオケである大阪フィルに小回りの効く音楽作りの大植英次がいて、小さいオケであるセンチュリーにスケールの大きい音楽をやりたい小泉和裕がいた、という一種の「捻れ」による相殺効果があったんじゃないか、という気もします。大植さんが「でっかい音楽」好きの朝比奈さんとは違うタイプだったことは好評だったし、これはこれで面白かった。)

でも来年からは、一番歴史があって編成も大きい大フィルが巨大なフェスティバルホールへ移って、ロシアの野太い音楽をやる井上道義が来る。スリムな機動力を思い出したセンチュリーは、いずみホールとの関係を深めるらしき気配がある。そしてあとの2つがシンフォニーホールに残る。本当は、センチュリーも思い切って「小編成」路線を打ち出して、定期はいずみホールで2日間公演+年4回くらいシンフォニーで特別公演or「シンフォニーホール定期」、ということでもいいんじゃないかと思うくらいですが(あくまで方針をわかりやすくするならば、の話で現実性は考えてません)、とにかく、楽団のサイズの違いと方向性の違いが誰の目にもわかる形になりそうです。

そしてこれは、今大阪には音楽専用ホールが大・中・小・特大ひとつずつ計4つあって(全部民間)、それぞれの方向性が違うんだ、ということをわからせる働きをすることにもなる。

これで、今まで以上にそれぞれのオーケストラの「キャラが立つ」ことになりそうですから、それぞれで何が起きるか、見物するのは面白かろうと思っております。

こんな感じにやりようは色々あるから、オーケストラは楽しみが多い。

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そしてピアノやヴァイオリンのソロのコンサートです。

外人さんの招聘事業については、よほどの有名スターじゃないと大きなホールでやっても人が集まらない感じがあって、それじゃあというので、いずみホールがかなり積極的に有名人を呼ぶ(もしくは人を回してもらえる)流れができつつあるみたいだから、これはこれで好きにやっていただいたらいいんだと思います。演奏空間としても、あれくらいのサイズのほうがいいんでしょう。

(そして2013年度に入ってからの関西各種媒体での急激な露出の増加は、自然に評価が高まったというよりも、事業体の戦略的な取り組み、しかもおそらくは、アーツ・マネジメントの手法というより、即効性が期待できる一般商品のマーケティング手法を全面展開することにGOサインを出すような意志決定が何らかの形でなされた結果とするのが、現状では、部外者からの急激な見え方の変化を説明する最も整合的な解釈だと思われます。)

そういう「まことに素晴らしい」ガイジンさんにはファンが付いていますし、悶絶の名演奏に「失神」を続発していただいたら、世の中が賑わって結構なことだと思います。

聴きに行って、ほんとによかったら良いと言うし、よくなかったら、こんなもん呼ぶな、とブーイングを浴びせるのみ。まことにわかりやすいことでござる。ダメだったら、さっさと切る、いやあ、音楽家と聴衆の関係って、実にさっぱりドライなものなんですねえ。さすが、「調和の芸術」だけのことはあります。

(ところで音楽家という「商品」は、いったいどこにどうやって育つんだろう。音楽家っていうのは、天然自然に外国に生える植物みたいなものなのかしら。いつの間にかそとの世界から凄い人がきて、いつのまにかいなくなる「消費地」の人間には、なにがなんだか、わかんないよ。でも、それでいいんだよね。どんどんお金だけが吸い取られて減っていくみたいだけれど、気にしない気にしない。)

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地元の音楽家の皆さんは、これからどうするんだろうなあ、と思うんですよね。

日本の伝統芸能でも、能や歌舞伎だったら晴れがましい舞台があるから一般の人も知っていますが、近世邦楽などの様々な流派のご一門の活動は、(別に好きで閉じ籠もっているわけではなく)諸事情から、そのご一門と関わりがない方がほとんど気づかないところで続いているじゃないですか。

ひょっとすると、オーケストラの楽器はこの先も人目に触れる場所で活躍できるけれども、日本人のピアニストは、伝統芸能の諸流派の取り組みに似た存在になっていくのかなあ、と思ってしまいます。

もちろんその気配は前から明らかなので、本気でソリストになりたい人は、「ガイジンさん」と同じ扱いをしてもらえるようにさっさと外国へ出てしまいますし、大阪で地道にやるより、東京で名を上げるほうが話が早いから東京の学校へ行っちゃったりする傾向はずっとあるわけですけれど、

最近の風潮としては、興行成績に少しでも不安材料になる要素は排除する、「地元の日本人」などというのは、最も外聞の悪い、真っ先に排除すべき要素である、みたいな感じですからねえ……。外人スター=特A、無名の外人=Aランク、東京のスター=Bランク、無名の東京人=Cランク、大阪人=圏外、という暗黙の格付けがあるかのように(笑)。大阪人は、素性を隠して外国に住んで「Aランク」入りを狙うか、せめて東京の学校を出て「B、Cランク」をゲットしないとステージには立てない。ここはどこの植民地なのか、みたいな感じです。

大企業がバックにいる民間の中小規模のホールが企画主体として前面に出てくるようになって、この「格付け」感が一層露骨になっているように感じます。

(010)格付けしあう女たち (ポプラ新書)

(010)格付けしあう女たち (ポプラ新書)

「女子カースト」ちゅうのがあるらしいですが、日常の職場で常にそうした「格付け」の緊張感にさらされている方々がスタッフ・聴衆としてあつまる場所であるならば、音楽家だって格付けしちゃえ、という風潮にも拍車がかかりますわな。

→書評:http://booklog.kinokuniya.co.jp/tsuji/archives/2013/12/post_112.html

まあ、今は人を差別してもいい、むしろ、堂々と差別したほうが勝ちだ、みたいな世の中ですから、よほどうまい仕掛けを考えないと、この傾向は止まらないでしょうね。

(昔は、こういうことに苦言を呈する「関西の知識人」というのがいたわけですが、たとえば今の大学の状況を見ればわかるように、大学の先生・学生の皆さんも、ビジネスパーソンな皆さんと同じ「成果主義」ですから、ローカルでウケの悪いテーマは扱いません。役所の管理も厳しくて、今の日本の知識人は、どこに住んでいたとしても、その土地に派遣されている単身赴任の東京人であるかのような思考をしますから、まあ、十中八九、ダメでしょう。)

たぶん、関西は、オペラとオーケストラだけ残って、ソリストは全部、外国か東京から呼ぶような地域になっていくと思う。そして2014年は、そういう「明るい未来」のスタート地点なのだろう、と、わたくしは思っております。そのようなレールを着々と敷いているご本人たちは満足そうな表情なので、もう、それでいいんじゃないでしょうか。

こういうアホな風潮のなかで孤塁を守ると、そのうち、逆に希少価値が出てくるかもしれないし、誰か頑張ってください。そのうち、アホが亡びるか勢いを失うかして、流れが変わることだって、ないとは限らないので、というか、たぶんそのうち、そういう風に潮目が変わることはあるのと思うので……。いや本当に、世間の潮目というものは、変わるときにはあっけないほどすぐ変わる。かつて朝比奈大先生が言ってたように、だからしぶとく長生きすること、生き延びることが肝要ですな。

(結局、色々なものを民間に売ってしまいたい市長さんと同じことを、「民間」の人たちは、一層迅速にやっている、というわけで、その風潮は、何年かだけ関西に赴任してきた大企業の社員さんのご家庭とかの人にとっては、東京と同じものが大阪でも手に入るから嬉しいんだと思います。一般の商品流通だって、今はそういうことになってますもんね。クラシック音楽、とりわけ、ソロ部門は温室で厳重に育てないとすぐに枯れる外来種。昭和の一時期には、根づかせる努力が相当熱心になされたけれど、今はそういう地場ものは流行らない、ということであるらしい。地場産は、なるほど多少癖はあるけど、そこが結構、オツなものなんだけどね。)

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以上、おおよその事情は整理できたので、もう十分。喪中につき、暮れの挨拶は省略します。

*この話のつづきはこちら → http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20131231/p1