音楽に特に興味がないアウトドア派の意見が聞きたい『日本の吹奏楽史1869-2000』

こういう本があればいいのに、と思っていると、すかさず出ますね。仕事が速い。頭が下がります。

日本の吹奏楽史: 1869‐2000

日本の吹奏楽史: 1869‐2000

のちに音楽之友社社長になった目黒三策が、戦前は日本管楽器宣伝部にいた、という話もちゃんと出てきます。

楽器商(日本楽器はのちにYAMAHAに吸収される)と楽譜出版社(音楽之友社その他)とジャーナリズム(甲子園野球と吹奏楽コンクールを主催する朝日新聞もここに加えるのがよさそう)の三位一体が「日本の吹奏楽」を牽引するエンジンになって、そこに新興の宗教法人(立正佼成会)が参入して、軍楽隊をいかにも戦後的なやり方で継承する自衛隊・警察音楽隊・消防署音楽隊が一歩退いたところで存続している、というような構図は、本書を土台に今後各論をさらに掘り下げることができそう。

『ブラスバンドの社会史』から一巡りして、どこを探索すべきなのか、道がつきつつある感じがします。

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ただし、「いまここにある吹奏楽」の来し方が克明にわかればわかるほど、そこからこぼれ落ちる何かが残ることにも気づかされる。吹奏楽は、このカメラのファインダーで全貌をとらえるにはデカすぎる、思い切ってカメラを引かないと、手足やしっぽがどこまで伸びているのかわからない巨大怪獣なんだなあ、という気が改めてしました。

山の向こうに頭だけが見えていて、手前で右往左往する人々が米粒のようにちっちゃく映る映像、という感じがちょっとある。とりあえず対象物がデカいことを伝えないと話がはじまりませんから、堅実なスタート地点ではありますが……。

吹奏楽研究は、ゴジラで言うと、

  • (1) クレーターのようにでっかい足跡(強烈な放射能反応!)を村人が発見した段階=『吹奏楽の社会史』

から次に進んで、

  • (2) 学者が現地に入り、そのすさまじい鳴き声と姿(ただしまだ頭しか見えていない)を確認。これは容易ならざることだ本気になった段階

なのかもしれませんね。

とりあえず今思うのは、どうやらこれは、「紙の資料」を掘り起こすインドア派のアプローチだけでは限界があるかもしれない、ということです。

考えてみれば、ラッパは元来、アウトドアの楽器というか音具ですよね。野外で遠くに音が届く特性を生かして、様々な用途が発展してきた。

だから、一方で「日本の吹奏楽」がいかにこのアウトドアなジャンルを室内(インドア)に飼い慣らそうとしてきたか、飼育方法の発展史を記述するとともに、アウトドアな手足と尻尾がどこまで伸びていて、その行動範囲はどれくらいの広がりがあるのか、そこを見極める生態学が要るのかもしれませんね。(その観点から今改めて『……社会史』を読み直すと、色々ヒントがあるかもしれない。)

ブラスバンドの社会史―軍楽隊から歌伴へ (青弓社ライブラリー)

ブラスバンドの社会史―軍楽隊から歌伴へ (青弓社ライブラリー)

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そしてもうひとつ、インドア/アウトドア問題と緩やかに関連しますが、

吹奏楽は、音楽が好きだったり、趣味は音楽観賞だったりするわけではない人たちを巻き込んでいる面が、現行のインドア吹奏楽においてなお、あるんじゃないか、という気がします。

別に好きじゃない輪番だったり、誰かがやらなきゃいけないことだったり、代々の家業だったりで、吹けば吹けるし、叩けば叩けるのが、ラッパと太鼓なんじゃないか。好き嫌いとは別のレヴェルで、ハレの場の誇らしいことだったりするわけですしね。

アウトドア派なブラスと、級長キャラのまじめな女の子たちの木管と、ホントはロックが好きなパーカッションの連中を束ねる、というようなイメージがないとは言えない「学校の代表」感。

学校吹奏楽の歴史を記述する上で、現場目線でこれを書くのは難しいことなのかもしれないですが、戦前の黎明期の学校バンドには、「メンバーは成績優秀者に限る」というのがあったりしたと聞いています。学校の代表として恥ずかしくない活動、というのがあったようなんです。おそらく厳しい規律は、こうした「誇り」と裏腹だったんだと思います。

そこのところが、現在の「コンクール常勝校」というレッテルとつながっていたり、つながっていなかったりするのか。ざっくり言ってしまえば、内申書問題&推薦入試問題とも絡まってくるかもしれませんし……。

とりあえずは、この種の文武両道も日本の近代化論の必ずしもそれほど珍しくはない方向性の一種だということで、戦前からのつながりをさらに掘れば、それだけでもっとくっきり見えてくるようになるかもしれませんし、だから、文系インドア派が中心になって推進する「洋楽受容/洋楽の普及」という視点は、古いところをもっともっと掘らなきゃいけなさそうだということになるでしょうか。

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そしてもうちょっと新しめの主に戦後の話で私が最近気になるのは、学校の課外活動とは何なのか?という話が、大上段に構えると、「人はなぜ音楽をやるのか? ただ好きなだけ、本当に?」というところへ踏み込むひとつの入口でもありうるんじゃないかということなのです。

自分の声を出して、みんなの声を合わせる合唱とか、自分(や親)の意志でおけいこに通うピアノやヴァイオリンは、まあ、とりあえず「好き」なんだと思うんですよ。どこかの段階で音楽に恋をする。そしてその種の音楽のほうも、「愛される」ような姿をしておる。

でも、はたして、全人類のどれくらいが音楽を「好き」なのか。全人類は明らかに大げさだけれども、日本の学校での吹奏楽の非常に高い浸透率のうち、どれくらいが「好き」に動機づけられているのか。

様々な制度面を具体的に分析・仕分けしていくと、「好き」では片付かないことが色々出てきて、「好きで音楽をやる人」の割合は、実はそれほど多くない、というようなことが見えてくるのではなかろうか、と思うのですがどうなんでしょう?

そのうえで、じゃあ、ポップスの場合はどうなのか。「好き」とそれ以外の割合・関係が、吹奏楽の場合と同じだったり違っていたりするのか。

20世紀の音楽事業は、どのジャンルでも、大なり小なり「万人に愛されたい/万人を愛したい」という音楽愛の帝国主義みたいな身振りを示す傾向があったと思うんですよ。それが、群衆 mass とか人民 folk とかが発見・発明されて、世の中の主役になった時代における音楽の身の処し方だったんだろうと、半ば体験的に思うのです。日本だと、戦前のモダニズムにその萌芽があって、戦後、「音楽愛」の帝国がアメリカニズムと相まって全面展開することになった。

こういう話の本命はポピュラー音楽なのだろうとは思いますが、「日本の吹奏楽」は、デカいといってもそれなりに探索しうるサイズなので、「音楽をやる」と「音楽が好き」の関係の解き明かすための素材として、ちょうどよかったりするんじゃないでしょうか。

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吹奏楽な人たちは、楽器を吹く(やる)ことは熱心だけれども、それは必ずしも音楽を聞くこと(コンサート通いとか)とリンクしているとは限らないとよく言われます。そしてそれは、もしかすると改善すべき欠陥というより、「やる」のは、「好き/嫌い」とは別の話だ、ということなのかもしれない。というか、きっとそうなんですよ。

クラシック音楽は、自分で「やる」ことなしに音楽を愛し、音楽に愛されたい、という、どこかしらプラトニックな構造に人を誘いがちなところがあるわけですけれども、どうやら、吹奏楽は様子が違う。

ひょっとすると、カラオケと比較すべきかも。外見は全然違うけれども共通点があるんじゃないか。上手い下手より、「ありもの」を自分でやる、というところに主眼があって、世のはやりすたりや、自分を周囲にどう見せるか、といったところに敏感な「選曲」が重要であるところ、とか。

カラオケは、たぶんマイクとスピーカーを通して声が加工されて、「生の私の声」じゃないから成立するんだろうと思うんですよね。で、吹奏楽をやればやれてしまうのも、「管」が音を増幅するからなのではないか。

吹奏楽という回路は、そんな風にして、「音楽愛」とはちょっと違うところへ音を出力しているところが、賛否両論あり、面白いところでもあるんじゃないかという気がします。もちろん「愛」を高らかに歌いあげる喜びは、ちゃんとあるし、むしろありすぎるほどのパワーで出力されているわけですけれども。(吹奏楽オリジナル曲の大半の中間部は「ラブソング」ですしね。)

「文系」に寄りすぎて、さらにそこにしばしばプラトニックになりがちな「音楽愛」が加わると、吹奏楽のでっかい身体がファインダーから外れてしまう。そのあたりが、吹奏楽のやっかいで、でも面白いところかもしれませんね。