自然の摂理

一方の、「欧米」ど真ん中を生き延びるなかで醸造されたユダヤ人ピアニストの過剰な装飾性と、他方の、文化的・地政学的運命として、どこまでいっても「新参」でありつづけるしかないのかもしれない「クラシック音楽家になった東アジア人」の過剰な律儀さを、「過剰」の一語で一括りにして、それを「余白の美学」の欠如という日本的ワビサビ(のようなもの)で超克できた気になる手前勝手なことば遊びの屁理屈は、

「上司なんて私のいいなり、だから私はストレスなし」と我が世の春(当人申告)を謳歌する会社員と同じくらい、「あんたら、言いたい放題やなあ」なわけだが、

そういうのには、自然科学の神(明治の近代ニッポンは「摂理」という言葉を当てたりした)が罰を下すに違いない、

と屁理屈には屁理屈を進呈しよう。

「インターネット」のオジサン・オバサンたちが放埒に文字を書き込む「しゃべり場」クラスタが急速に辺境化しつつある予感とともにはじまる2014年。「正月」とか「連休」(←多すぎないか)とかを反映していたり、反映していなかったりするタイミングで、いずれにせよ、的確な感じに届くお仕事のメールのほうが、よっぽど「ソーシャル」な手応え。

なんか、そういう風に世の中の気圧が変わっている気がします。