共和制の困難(RE: ジョルジュ・スーラ問題)

『知覚の宙吊り』第3章(スーラのところ)をゆっくり読み直し中。

画面を無数の点に分割した先で、そこからモワっと形が浮かび上がってくる現象が問題になっていて、『観察者の系譜』伝来の19世紀の生理学の話はもちろんのこと、心理学で言う「形態質」のこと、デュルケムの社会学、集団の視線を集めるスペクタクルにまで話が及ぶあたりまで来ましたが、

読んでいるうちに、だんだん絵画の話、知覚の話の先で「共和制の困難」について書かれているような気がしてきた。

第三共和政って、東西南北を王国・帝国に囲まれて、国内では教会や王党派と共和派が大もめに揉めながら、どうにかやりくりしていた時代ですよね。プロイセンとの戦争に負けた末の「外から強制された共和制」と言えないことはないけれども、それを言っちゃあおしまい、な苦しい立場でもあるし……。

でも、それじゃあ100年後の極東の列島の「戦後レジームの困難」と似ているかというと、それはたぶんちょっと違う。(こっちは王様がいらっしゃいますから……。海峡を挟んで「法を尊重する王様」の国と大統領制の国が向かい合ってる構図は今の極東にもあるけれど、わたしらが住んでるのは、そのうちの共和国じゃない方なわけで……。)

そのあたりの、大事そうなんだけれども、共感ベースで読める話というわけでもない距離感があるから、すらすら読んじゃいけないような気がするです。

(そしてそういう話をモネやゴッホのようなスターなしでやろうとしているわけですね。言論を「炎上」させる派手なパフォーマンスなしで考えよう、みたいな感じかもしれない。)