路上観察と清潔社会

[追記あり]

そうは言っても、素朴な「気づき」の「取って出し」で木戸銭を取っていいというものではなかろう。それは、ちょっとでも「普通」じゃないものを全部「異常」として捨てる清潔指向と同じになる。行き先が論文かゴミ箱かの違いがあるだけで、「普通」じゃないものを片っ端からハンティングして成果として出力し、あわよくばそのデータが換金される(いわゆる「ビッグデータ」に似たものとして)、なんていうのは、なんだか窮屈でせせこましい。

集めたものをどうさばくのか、路上観察は、単なる「取って出し」じゃないとしたら、その先の「芸」を担保に前借りしている建て前になるはずで、にもかかわらず当面は返済の具体的なプランがない、ということになると、何やら自己破産するまで気軽に街角キャッシングを繰り返す人みたいな感じになりそう……。そしてそうであるにもかかわらず、確実に利回りがあるかのように見せかけているとしたら、それは、部外者には、ブラックでポエムな搾取と見分けがつかなくなる。そら怪しいよ。

路上観察への風当たりが強いのは、むしろ、わけがわからないものへの不安の裏返しなんじゃないの。何やっとんじゃ、やるなら勝手にやればいいけれどもそんな風来坊とは親子の縁を切る、金は出せない、先のあてがない借金の連帯保証人は断る、みたいな。

そしてそうなったときに、指導者や先達が無縁な後進に何を保証できるのか。「教団」めいた無縁の連帯……だとすれば、それはそれで潔いとは思うけれど。「おもしろ」需要は世の中に一定量あるものなのだろうから、お布施が集まる可能性は、たぶんある。

そっちの道でいいんじゃないか。

これはとても立派な活動なのだ。我々に石を投げる者は地獄に堕ちるであろう、みたいに異教徒を呪詛する戦闘集団を目指すよりも、たぶんこのほうがわかりやすい。

ストリートにかような観察者が無縁の者として怪しげにウロウロしている社会は、過剰な清潔指向や、あらゆる「気づき」が取って出しに成果として換金される相互監視状態よりも、むしろ暮らしよいだろうと思うし。