労音考 補遺:坂本九と朝日のAGOT

長崎励朗『「つながり」の戦後文化誌』の周辺のお話、まだもう少し続きます。

ちょうどいいタイミングでCDが到着。

夢であいましょう 今月のうた 大全(DVD付)

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60年頃の坂本九の好青年な感じは、ペギー葉山と並んで「労音」的と言うことができるのかもしれない、という観測をどこだったかで見かけたのですが、そんな坂本九を後世に映像で残したのがNHK「夢で会いましょう」ですよね。永六輔と中村八大。

放送の音楽バラエティショウは、たぶん色々なものがそこへ流れ込んでいて、そのあたりを語り、論じ、研究する人はたくさんいて、私には何も新しい材料はないですが、公共放送の番組に「労音」的なものがどういう形で入ったと言えるのか、というのがちょっと気になります。

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1982年10月のザ・シンフォニーホール開館で、日本のクラシック音楽は「音楽専用ホール」を舞台とする新しい局面に入ったとひとまず言えることになっていて、その「軽やか」な感じについては、サントリーホールなどを題材にして既に渡辺裕『聴衆の誕生』が論じており、その後の企業メセナ系ホールも、「単なるハコモノとは言わせない」の決意で各地に建てられた公共ホール、ならびに、100年の悲願が実現した「オペラやバレエを想定した“芸術劇場”という名前の公共ホール」も、基本的にはこの路線に乗っているんだと思います。

が、先陣を切ったシンフォニーホールのホールスタッフは、当初はAGOTの学生さんたちだったと聞いたことがあります。

AGOT(=朝日学生音楽友の会←この、日本語のローマ字表記の頭文字を略称にする、というのも、ある時代・階層のテイストって感じがします、ひょっとすると往年の「大学生文化」なんじゃないだろうか)は、これも気になっていながら調べられないでいる動きで、

http://gakuon.osakazine.net/e213338.html

によると昭和20年設立で、2008年の旧フェスティバルホール閉館とともに解散したとのことですから、何らかの形で数年前まで存続していたんですね。

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私がAGOTの名前を知ったのは、50年代の音楽雑誌に、新しいタイプの音楽鑑賞団体として、音楽雑誌に労組系の労音や経営者系の音文協(音楽文化協会)と並べて紹介されていたからです。

シンフォニーホールのホールスタッフさんの雇用形態がどうなっていたのか、私には具体的なことはわかりませんが、昭和30年代の「音楽鑑賞」文化の担い手だった団体の流れが朝日新聞系列のホールについ最近まであったんだ、というのは、漠然と、あり得ないことではないかもしれないなあ、と思っています。

少なくとも、「音楽専用ホール」というコンセプトを打ち出したのはシンフォニーホールが最初だけれども、旅客機のキャビンアテンダントさん(=かつて「スチュワーデス」と呼ばれていたような)を連想させる揃いのスーツの「レセプショニスト」さんが「お・も・て・な・し」をする習俗は、シンフォニーホールではなく、お酒の会社であるところのサントリーが東京に建てたホールからだ、ということは言えそう。

たぶん、日本の音楽ホールのスタッフのアイデンティティが、1980年代に、「音楽観賞コミュニティの世話役・幹事役」から「接客業」に転換したんだと思う。

そして「接客業」路線は、サントリーを嚆矢とする企業・メセナ系ホールから始まったのだけれども、「良好な音響」というのとあいまった「差別化」が功を奏して、従来の「世話役・幹事役」がロビーや会場内をうろうろしている状態は「ダサイ・冴えない・鬱陶しい」(こっちは客だぞ、なんで飲食がダメなんだよ、ぶつぶつ……)ということになり、「接客」モードが公共ホールにも広まった、ということかと思います。

(行政が、市民への「サービス」を提供する、という言い方をするようになったのと連動するところもあるかもしれない。)

で、こうした経緯を踏まえると、実は、笑顔の暖かい「接客」路線は、経済原理に一歩踏み込んで、「サービス」の「売り手と買い手」の間に明確な線を引く動きでもあって、一方、ダサくて冴えない無愛想な「世話役・幹事役」モードは、「想像上」かもしれないけれども、音楽会に関わる人を「ひとつのコミュニティ」と捉えようとしていたのではないか。

つまり、「飲食は禁止です」とか、「ガサガサ音のする袋はクロークにお預けください」みたいな「注意」は、金を払って「接客/お・も・て・な・し」を期待するモードの人にとっては、「客を客と思わない不遜な態度」に感じられかねないけれども、「世話役・幹事役」モードで考えると、「これからコミュニティの集会・寄り合いをやるんですから、飲み食いとかそういうのは、あとにしませんか」とメンバー同士が声を掛け合う構えなのかもしれない。

(マンションの管理組合の集まりにほろ酔い気分で参加したら顰蹙ものだ、というのに近い感覚だと思えばいいのかも。……逆に、だったらなおさら、ルール・規則を楯に取る「鋼鉄の結束」で押すのではなく、同じコミュニティの仲間同士、どのラインで話の折り合いを付けることができるか、柔軟に語り合いましょう、の姿勢が要るだろうと思ったりはしますけれども、それはまた、別の話。)

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いずれにしても、そんなシンフォニーホールも、1月から新しいオーナーによる運営に切り替わって、ホールのスタッフさんも新規採用で一新されたそうですから、「世話役・幹事役」文化と「接客」文化がユニークな形でせめぎ合う空間が、またひとつ消えた、ということにはなりそうですね。

でも、幸か不幸か、幸い、なのか、残念ながら、なのかは知りませんが、公開コンサートという形態は、何が「商品/コンテンツ」として売買されているのか、とか、入場券は経済としてどう位置づければいいシロモノなのか、とか、考えてみれば「売り手と買い手」を効率的に峻別するのが難しい奇妙な行事ですから、どこかに別の形でそのうち何かが涌いてくることになるんでしょう。

「音楽鑑賞団体」という、今では表舞台に出ることが少なくなったしくみは、コンサートという奇妙な文化と原理的に絡み合ってるはずなんですよね。そこをどう舵取りするか、その視点なしに、事業体としてのコンサート&ホール運営を「経済」の内部へ全部とりんでしまうことはできない。

まあ、そんな話は、原則論としては誰もが知っていることですが、「労音」の周囲で何が起きて、それが、その後にどうつながっているのかを見るのは、そのあたりを考えるときにも色々参考になるかもしれない。