労音考 番外:「消費行動が企業を動かし、社会を変える」という思想の位置

速水健朗『フード左翼とフード右翼』は、「ピュアトーン」を信奉する古楽を考える参考になるかも知れないと思って、実際に一度アイデアをまとめてみたのですが、読み返すとかなり違和感があったので、全面改稿。

フード左翼とフード右翼 食で分断される日本人 (朝日新書)

フード左翼とフード右翼 食で分断される日本人 (朝日新書)

「ラーメン/愛国」の本は講談社、「左翼」の本は朝日から出たんですね。

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とりあえず『フード左翼……』という本については、

この人たち[「東京ベジフードフェスタ」に集まる「関東在住のベジタリアンやビーガンたち]のことを、勝手に「フード左翼」と名付けてしまう。[……]勝手なレッテル貼りに気を悪くするかもしれないが、本書はそういう思考実験の末に、現代人の政治意識を導き出そうという趣旨のものなので許してほしい。(27頁)

という最初の前提とスタンスが、キモでもあり、ヤバさでもあると思う。

当初、この「思考実験」にひとまず乗ってみてもいいかもしれない、と思ったのですが、実際にやってみると、どうにも話がつまらなくなるので、リセットして、やり直した方がいいと思った次第。

この本は「フード」における「左翼」と「右翼」を並べてタイトルに出して、「地域主義vsグローバリズム」の横軸、「健康志向vsジャンク志向」の縦軸の四象限に様々な現役店舗を割り付けた「食のマトリックス」を提示するのだけれど、実際に取材・レポートするのは、ここで「左翼」に割り付けられた事例のみになっている。

「フード左翼」ととりあえず呼ばれている事例のレポートで一冊書くつもりだったのが、諸事情を経て「左翼・右翼」を並べた体裁で本を出さねばならなくなったのか、最初から「左翼・右翼」を並べる予定だったけれども、書いてみると「もう右翼はいいか」ということになったのか、経緯はよくわかりませんが……、

いずれにしても、「右翼」の話として適宜参照されるのは「ラーメン二郎」に代表されるラーメン店で、この本を『ラーメンと愛国』と組み合わせると、右翼と左翼、両方をカヴァーしたことに、いちおうはなっているようです。

が、『ラーメン』のときも、安藤百福とはどういう人なのか、話の入り口にトリックがあったんですよね。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20121002/p1

世の目立つ現象を、外から観察できるいくつかの指標で分類・マッピングすることで浮かび上がってくるイメージは、たぶん、「政治」というより、諸々の「イデオロギー」だと思う。様々な「イデオロギー」を背負った人々が接触・交渉・集合離散・組み替え等々を繰り広げないと「政治」にはならない。

「イデオロギー」を、暫定的であれ浮かび上がらせる「思考実験」をやってみた=土俵を私が用意したから、さあ、みなさん、この土俵でこれからゲームをやりましょう!

と自ら興行主を買って出て、各方面に誘い水を向けるのは、「政治」へのひとつの入り口、ジャーナリズムの基本ではあるけれど、

これから土俵に乗ってもらおうとする人たちに対するネゴシエーション(←これも「政治」)が上手くいっているのか、「あんたが好きなように書くのはいいけれど、あたしゃその土俵には乗らないよ」という反応を招いて、結局、本書が提示する「政治」の「土俵」は、開設した瞬間に誰も力士が登場しないことが決定している、みたいなシュールなことになってしまってはいないか。

(それだと、箱を開いた瞬間に「死」が確定する「シュレディンガーの猫」のような感じになってしまうわけで……。)

ヤバイところをギリギリでかわしながらの話の進め方が上手なので、「フード」の件はもう「左翼vs右翼」で土俵を開いちゃおう、思い切ってこの箱を開けちゃおう!という気にさせてしまうけれども、そして、わたくしも一度はうっかり箱を開けそうになったクチですけれども……、ここは「ちょっと待った」がいいかもしれない。

(わが家に代々伝わるこの箱を開けると、不幸が訪れるのです@トリック・ドラマスペシャル ← あ、そういえばこれも「朝日」の番組だ。)

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とはいえ、ここで「フード左翼」とレッテル貼りされた人々の存在は興味深く、あっちこっちに、古楽を支える人々との類似点がみつかる。

古楽が商業ベースに乗った最初期の小さなエピソードについては以前に簡単に書きましたが、

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20131217/p1

  • (1) 食文化における「エコ」(カラダにいいものを食べたい)とか、古楽運動における「オーセンティック」(作者の書いたとおり/聴いたとおりの音・音楽に触れたい!)とか、素朴に受けいれることのできそうなスローガンが、いざ、具体的に考え、実践しようとすると、「宗教に近いイデオロギーの乱立」を招いてしまうに至ること
  • (2) 楽譜と楽器の調達、奏法を確定する資料の収集など、すべて自前でやりとげることで「汚染された近代」をスルーする DIY (Do It Yourself) の精神

などは、1960〜70年代に様々な領域にあったと思いますし、

(今では DIY の語を最も良く目にするのはシリコン・バレーなコンピュータ界隈、「カリフォルニア・イデオロギー」と呼ばれたりするヒッピーとデジタル・エリートが混淆したハッカー文化ですが、我々おっちゃんたちが子どもの頃リアルタイムに体験した1970年代には、「日曜大工ブーム」=庭の犬小屋を自分で造ろう、とかいうのがありましたよね。あれです。家庭でシェフの味!なインスタント食品と、日曜大工と、ハッカーは、同じ時代の文化だった。)

それから、

「敵は国家ではなく企業である。消費行動が企業を動かし、社会を変えるのだ」

は、1970年代の新左翼に典型的な「転向の論理」であったと、しばしば指摘されたりする。(イトイさんなどの「80年代コピーライター文化」がまさにそれだ、とか。)

面白いパフォーマンスを積み重ねて、モダン楽器のオーケストラにも「ピュアトーンの思想」を広げていく古楽の伝道師たちの取り組みは、これと似たところが確かにある。

また、速水さんは、「フード左翼」の背景として、都市の「クリエイティヴ」な「新しい意識」をもつ人々の間で、今は「カジュアルかつコンフォート」が求められている、という指摘を紹介していますが、

中身化する社会 (星海社新書)

中身化する社会 (星海社新書)

古楽は、作曲家たちの「調性回帰」と並んで、音楽における

「カジュアルかつコンフォートこそがクリエイティヴだ」

というトレンドの双璧かもしれません。

こんな感じに、今現在の都市の「おしゃれ系風俗」として見た場合に、古楽は「フード左翼」っぽいものとして機能しているかもしれない。

速水さんは、「フード左翼のジレンマ」として、有機農法等々のエコな食生活がどうしても手間がかかって高コストであり、結局、都市のアッパーミドルや富裕層以上に広がりそうにないだろう、ということを指摘していて、結局のところあれは、マリー・アントワネットがヴェルサイユの中に農園を作って、パンを焼いたりバターを作ったりして癒されていたのに似た贅沢なんだろう、と言いたくなるところもある。

マリー・アントワネット (通常版) [DVD]

マリー・アントワネット (通常版) [DVD]

「アントワネットが実は作曲もしていたの」は、古楽コンサートのつかみに最適だったりもする。フェミな感じだし……。

(クラシック音楽は、もとから都市の贅沢な娯楽という面をもっているわけですから、そこにリベラルな風が吹くことは、多少高コストでも、歓迎すべきことかもしれませんが……。)

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でも、やっぱりむしろ問題は、古楽には1970年代以後の隆盛よりも以前の段階で、かなり色々なことが起きている、というところだろうと思う。(「食」のほうでもそう言えるのか、私にはよくわかりませんけれど。)

小岩信治さんの『ピアノ協奏曲の誕生』の書評(『音楽学』)に、

19世紀末にはチェンバロ復興の試みが始まっているのだから,ピアノが(オルガンを除けば)唯一の鍵盤楽器であった時代は,実は100年に満たない。

と書いたのですが、「古楽」は、一度途絶えて復活したあとだけでも1880年代頃から100年以上の様々な取り組み・積み重ねがあるし、そうした取り組みは、どうやら色々調べてみると、18世紀以前の音楽と完全に「断絶」していたわけではないらしい。

古楽の復活

古楽の復活

つまり、「古楽」という、オーガニックでスローフードな理想郷がかつてあったのが、「近代」によって破壊され、20世紀後半になって、人々はようやく我が身の罪深さを悔い改めて、古楽復興に乗り出したのである、という、なんだか宮崎駿なんかが好みそうな物語は、まさしく「神話」だと思うんですよね。

研究者などの間では、既にそのあたりに少しずつ関心が持たれつつあるようですし……、「ピュアトーン」信奉を核とする古楽神話の地盤は、ジレンマを抱える「フード左翼」と同じくらい脆弱なんじゃないか。

「フード左翼」が、自助努力を掲げるがゆえに「小さな政府」の新自由主義に接近してしまったり、逆に、地域に土着してコミューンを構築することに固執するとある種のアナーキズムを招き寄せてしまったり、あっちこっちに落とし穴があるように、「古楽」も、清廉なイメージに惹かれて近づくと、闇に足下を取られてしまうかもしれない。リアルな「過去」は、人畜無害なはずがないわけで。

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今現在、「古楽的な発想」は左翼的もしくはリベラルに見えている(かもしれない)と思うし、その線で支持する人がいないわけじゃない(かもしれない)とも思う。

でも、たとえば、かつての「労音」のプロデューサー陣には、たぶん、この発想はなかったと思う。むしろ、演奏家と音楽学者が手を携えて古楽をビジネスのルートに乗せた1980年代以後は、「労音」的なものが開いた底を一旦閉じたあまり広くはない空間に、「ピュア」で「クリエイティヴ」のアロマを充満させようとする感じがある。

ひょっとすると、「フード左翼」と名指されている現象にもそういうところがある……かもしれなくて、だとしたら、ガバっと箱を開けるような所作は、一番対象に似つかわしくないことなのかもしれない。

たぶん、搦め手からアプローチするほうがいい。

「消費行動が企業を動かし、社会を変える」と信じる人々が陶然と眺めているホログラムは、なるほど、外の光が入ると消えてしまう幻である可能性が高いけれども、強制的・物理的な介入だけでは、幻影への「依存」を解除するのは難しい。