一週間前、パソコンを新しくして姿勢を悪くしたせいか、生まれて初めて腰痛というものに悩まされてしまい、急遽、長らくモノに埋もれていた腰に負担の少なさそうな机と椅子を発掘したら、ついでに部屋を色々整理したくなってしまって、あれやこれやとバタバタしていたら、昨日から腰痛は消えた。
その間に、難航していた原稿は仕上がるし、部屋はきれいに使いやすくなったし、たくさん書き込むうちに新しいパソコンにも慣れたので、よかったのかもしれない。
こういう案件は、ポピュラー音楽を語る方々のほうが手つきがしなやかで、「中和」という言い方は喚起的で、マネして使ってみたくなる。
クラシック音楽(ゲージツ?)を語るときの、「作品そのものと向き合う」は、対象や構えを絞り込んで、「そのもの」じゃない事柄を棚に上げたり、脇へどけたり、捨てちゃったりするイメージだけれども、
周りにいろいろなものがまとわりついたそのままで、さらに別のものや文脈をもってくることで「中和」したり「相殺」することができれば、眉をつり上げて強制排除しなくてもいいですよね。
クラシック音楽がしばしば「敷居が高い」と言われるのは、物語や諸々の知識・情報が強力にまとわりついていて、傍目には、いったい何をもってきたらこれを相殺・中和できるのかよくわからない、ということかもしれない。
で、ハンスリックの「音楽美」のご高説も、
感情を排して形式と向き合え、という骨っぽい説教・演説ではなく、
「感情惑溺の強酸性の大海原で遭難しそうになったそのときこそ、形式というアルカリ剤を投入する絶好の機会ですよ、ほら、きれいに中和したでしょう、白さが際立つハンスリック!」
ということで、洗剤のCMのようなものと読み替えれば、ご家庭の必需品になるかも。
そして「熱」は、割合はやく冷めるのかも。