辣腕作曲家は「釘を刺す」

クラシック関係者は、さすがにイトケンの放言に全面同意するほど浮き世離れしてはいないけれども、「あの優秀きわまりない」作曲家さんが、あたかも難しいバス課題に見事な解答を与えるかのごとき精緻なリクツで友人を弁護する論陣を張ったことで、新垣クンはもう大丈夫、と信じ切っている節があり、佐村河内の謝罪文も、文面は素直に自分をさらけ出している文体ではあるけれども、おそらく弁護士と打ち合わせて、可能な限りトラブルがこれ以上発生しないような線でまとめられている印象がある。

これで幕引きなの?

いろんな力が相殺しあって、あら不思議、手品のように「ハーモニー」が安定してしまったりして……。音楽はそーゆーとこ。音楽をめぐるトラブルは、現実界での影響力に換算すると、実は全然たいしたことではない虚の世界の出来事にすぎない、そういう見方がありえないわけではないかもしれないれど……。

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それはそれとして、

川島素晴は、実務的に動くときに、ものすごい豪腕なんだろうなあ、ということがよくわかった。

最後のギリギリまで論理的に書く姿勢を決して崩さないので、うっかり油断して鵜呑みにしそうになるけれど、

新垣さん、今後は、仮に依頼を受けたとしても(そしてその可能性はとても高いと思うけれど)、佐村河内名義で発表したような作品を書くことはやめて、純然と、オリジナル作品だけを、書き続けて下さいね。

TwitLonger — When you talk too much for Twitter

という最後の段落は、信念の言葉であって、論理ではない。これは神の前で、父と子と精霊の十字を切るアーメンのポーズだ。

どこまでも論理的な折衝を続けるその意志の強さの背後には、「友人」にブスリと「釘を刺す」ラディカルな力が働いている。もちろんそれは、「篤い友情」と読むことができるラインを超えてはいないわけだが、友愛、というのは、これまた難儀な人間関係だからなあ……。

この人は怖い。

「実存を作品へ昇華する」という古くさい美学を信じているはずもなく、それゆえ、職業としては「芸術家」であるにもかかわらず、この人の辣腕ぶりは、ほかの何かに変換して活用されるのではなく、生身の人間の実生活上の「力」として今そこに脈々と息づいているように見える。そこが怖い。

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音楽家は、ヴィルトゥオーソという現象があるように、概してカリスマに弱い。良くも悪くも。

でも、今起きているのは、かつてのように、ヴィルトゥオーソ=音楽のカリスマが実生活とゲージツの間にぶっといパイプを通すのではなくて、

音楽家全員がすがりついても大丈夫そうな実務の豪腕の持ち主(カリスマの最有力候補のひとりかもしれないような)が、「今は門を閉じるべきだ」と判断して弁慶のようにゲージツの入り口に仁王立ちになり、義経を守ろうとしているように見える。

彼自身の作風を考えると、これはむしろ自分の首を絞めることのような気がするのだが、実務家は、自分自身のことを棚上げにしてこそ実務家なんだよねえ……。辛い話だ。

仲間や友人をほったらかしにして、好きなことを好きなようにやってもいいんじゃないだろうか。

新垣、おまえもこれからは自分のことは自分で守れ。おれはおれの道を行く。さらば、達者でな、みたいな物語はだめなの?(←悪魔のささやき?)