宗教音楽の「音楽そのもの」とは何か?

[細かく補足あり]

「音楽そのものと向き合え」派(コンテンツ派)と「物語込みで楽しもう、むしろ、物語をこそ楽しもう」派(コンテクスト派)の議論、ということにすると、あなたはどっち、わたしはこっち、と気軽にしゃべれるような気がするかもしれないが、

宗教音楽はどうするのよ。

宗教(教義だけでなく信仰・儀礼を含む)から切り離して、ここのハーモニーはまことにすばらしい等々、だけでええんかいな。せやけどまあ、コンテクストを楽しむ言うたって、信仰を丸ごと受け止めるってなことになったら、それは人生の一大事になってまう。隠れキリシタンのオペラを長い時間かけて作曲してるうちに、自分が入信してしもた京都生まれの作曲家さんもおるらしいし、根性決めていかなあかん。どないしょう、やっかいなこっちゃで。

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既に日本語訳で業績の概要を知ることのできる学者が、この作曲家のこのジャンルを演奏するならこの人、と推薦したプレイヤー・リストは、著作から推察される研究者としてのバランス感覚などから判断して、たぶん、しっかりした見識に裏打ちされたものだろうと思う。

日本側は、そのジャンルそのものではないにしても、その作曲家と時代の音楽論に学生時代から取り組んでいる学者が窓口になって、研究者としての威信にかけてプログラムを作るというのだから、これも、お手並み拝見、と正面から受け止めたいものである。

そこまではいい。というか、そこまでで、もう十分立派だ。

そして、「ゲンダイオンガク」に邁進する人がいるように、「音楽そのものと向き合え」のコンテンツ派の急先鋒は、この種の、コンテンツとコンテクストの切り分けがきわめて難しい案件にこそ、率先して「突撃」して、彼の考える「音楽そのもの」だけを切り出して悦に入るのを習慣としているのだから、そういう人が喜びに浸るのは、まあいわば、いつものビョーキであって、暖かく見守るしかない。

(「音楽そのものと向き合う」派は、ゲンダイオンガクのシンパもしくは、そこからの転向組が多く、井戸掘って地下水で生活するのに似た音楽の自給率が異常に高い場合が多い。

そしてそんな風土のなかから、「あそこのホールが私と同じ思いで自給自足を目指している」「今はここが私の思いをわかってくれる」と、意中のホールを渡り歩く「憂いの騎士」が生まれたりもするわけだが、現状では、むしろ好企画が純然たる自給自足で営まれる可能性はきわめて少なく、本格的に稼働率を高めるために、新たなサイクルを構築するべく着々と手を打っているところが大半なので、今回もまた、幻のドゥルシネア姫を恋慕している気配が濃厚である。)

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ドン・キホーテを「かなわぬ恋に生きる老人」として描いた白眉は、最晩年のマスネがシャリアピンのために書いたこのオペラだと思う。

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「これはたぶん立派なものだとは思うけれど、難しそうだよねえ」と怯んでしまう一般人は、こういう案件と、どうつきあったらいいものなのか。

(日本のクラシック業界は、つい最近、例の仰々しい宣伝文句にあっさりダマされたばかりだから、言いなりで踊らされるのは、もうこりごりだしなあ……。)

とりあえず、自分ではよく知りもしない人が「とにかく行こうよ」と誘ってきたからといって、おいそれとは行かないよね、普通。

でもまあ、世界三大宗教のひとつといっても、わざわざ日本で手間をかけてやろうと思うくらいのものだから、その宗教についての一般常識だけでは説明できない「何か」があるはずだし、それを演奏するためにやってくる人も、見識ある学者が推薦するくらいだから、何か特別なんでしょう。

その「特別」の正体は何なのか?

こういうときこそ、大きなストーリーじゃなくて、なぜこの曲・この人なのか、という小さなコンテクスト、普通の言葉でいえば、丁寧な説明を、コツコツ積み上げるのがいいんじゃないのだろうか。

そうして、大枠としてはなじみのないジャンルであり、公演を手がける私たちにもわからないことだらけだけれど、時間をかけて、手の届くところから一歩ずつ、一緒に学んでいきませんか、という誘い方が正道なんじゃないのかねえ。

信仰という、当事者にとって非常に大切でデリケートな問題が関わるジャンルなのだから、肩肘張る必要はないけれど、「気軽にふらりと」では失礼だろう、と行く方も思うわけで、だから知りたいのは、いきなり音楽としてどこがすばらしいかの力説ではなく、冠婚葬祭マナー集みたいなものだと思う。

(まあ、本当は、1回目がその格好の入門編になっていたんだけどね。トッカータという、宗教儀礼としての役割からやや外れるジャンルと、コラールという宗派の大切な歌を用いた前奏曲では、演奏法やストップの選択などからして、まったく違っていたんですよ、ということをはっきり弾き分けて教えてくれるコンサートでしたからね。

そうして2回目で、日本人の演奏家が、新しい感覚でストップを組み合わせて特筆すべき効果を発揮している姿を見せてくれた。

……という感じに、よく考えられた「続き物」になってるみたい。

気が短いのか何なのか、よく知らないけれど、最近の興行の人は、「コンテンツ」(商品)と「コンテクスト」(物語)を二者択一で分けることばっかりに熱心で、商品の並べ方それ自体が徐々に新しい物語を生成していく続き物の取り扱い方を、すっかり忘れてしまったのかしら……。既存のストーリーにあてはめることだけが「コンテクスト」ではないのにね。

そして音楽で新しい物語を作る気概が、イタリアやフランスの既存の物語のなかでは「後進国」にカウントされていたかつてのドイツの、マイナスをプラスに反転させる原動力で、だからこそ、ニッポンの音楽は、ドイツに学べ、と坂の上の雲で近代化、だったはずなんだけれど……。)

そして以上のような「コンテクスト」においてであれば、全盛期の自民党本部の大物職員(農政担当←いわばニッポンの屋台骨を支えたわけだ)の息子にしてカトリック信者(院は本郷の文学部美学だけど学部はたしか表象文化だからアズマンの割と近くにいたことになる、表象文化というのは「第二美学」のようなところで、「紋切り型」と「物語」をキーワードに文壇をなで切りした文芸評論家にして教養のフランス語教師で映画評論家の先生などが設立当時の中心だから物語論の牙城でもあった)という、見ようによってはとてつもなく大きな物語を背負っていると言えないこともない著者(今はゲームと錯覚の美学に夢中だけれど)によるこのシリーズも、ぴたりとはまる場所が見つかるかもしれない。

ちなみに、このシリーズのゴールと目されるワーグナーの最後の作品「パルジファル」は、言うまでもなくスペインのレコンキスタ(強靱なカトリックの「再建」)がモデルになっている。