夢は大きくワールドクラスのチェンバー・オーケストラ

某所でそんな会話を見かけたが……、

室内オーケストラという20世紀の現象は、おそらく、弦楽四重奏に代表される室内楽と、マーラーやリヒャルト・シュトラウスが君臨した時代の後期ロマン派巨大編成オーケストラを前提として、その間を駆け抜けようという作戦として始まったのだろうと思う。

音楽性がぴったり合った精鋭だけでやる室内楽と、合理的に組織されたオーケストラ、双方の「いいとこどり」ではあるけれど、本気でやると、双方のしんどいところを両方あわせて背負いこむことにもなるんだろうなあ、と思う。

室内楽(カルテット)を常設でやっていこうとするときの、バンドを続けていくのに似た苦労は、最近、映画にもなったらしいけれど、他方のオーケストラの「内部」のあれこれについては、非常にいろいろな話が耳に入ってくるし、伝えられる歴史上の様々なエピソードだけでも、まあ続けるのは大変なんだろうな、ということは容易に想像がつく。

オーケストラだと、会社みたいになかがいくつものセクションに分かれているから、ダイレクトに個人と個人が衝突するのを回避する工夫もありうるけれど、室内楽だと、ノーガードで個人同士がぶつかるから、それでしばしばメンバーが交代したり、短命で終わったりするんですよね、たぶん。

そのリスクをより大きな規模で抱えつつ、合理的な組織を維持しようというのだから、チェンバー・オーケストラは、実現したらすごいけれども、そりゃもう大変なのでしょう。

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イメージとしては、オーケストラは野球のチームっぽくて(=全員が常にフルパワーで参戦しているわけではない「待ち」の時間が結構あるところとか)、チェンバー・オーケストラは、組織化されているけれども個人技の度合いが大きいフットボール的なんじゃないのかな、と思う。

ということは、ワールドクラスを目指すことは、ワールドカップに出場できるサッカーチームを作るのに似ているわけだ。

だとしたらきっと、

ちょうど音楽でピリオドな人たちが颯爽と登場して「時代を作る」に至ったのとほぼ同時代のスポーツ界でいうと、「J」の皆さんが、バブルの残り香があるところで華々しくスタートしてから、イケイケで突き進んだけれども地に足が付いていなかった「ドーハの悲劇」を経て、そのあと首脳陣がぐちゃぐちゃになって、監督の途中解任で岡ちゃん(大阪天王寺高校出身だ)がかろうじてピンチを切り抜けて、お隣の国と仲良くしながら世界大会を開催して、スターと目された中心人物が「自分探し」で戦線を離脱して……、もうほんとに色々あって、ようやく本田がACミラン入り、という、この20年みたいのが音楽の世界で起きることを覚悟せよ、ということですよね、

(その過程で、怪しげな人間にまんまとダマされたり、マジでいい人に出会ったり、そらもう波瀾万丈になることでしょう。)

なるほどそれは、面白いといえば面白いかもしれない。

ただしおそらく、その夢が叶ったときには、ほぼ間違いなく、表の人も裏の人も、今ここにいる人たち全員がどこかで解任・退場しているくらいに「大量の血」が現場に流れて、ひょっとすると、レアル・マドリッドみたいに、メンバーは全員外国人になっていたりするかもしれない。

それもよし、ということでGOサインを出すのであれば、まあ相応の覚悟はするが。

しかし、マジか?

ま、調子こいて気が大きくなってるようなときでないと、人間そこまでアホにはなれないものだから、ええタイミングや、とはやし立てるべきなのかねえ。

だったら、オシムやピクシーが来たいと思う環境を整えるために、まずは手堅くオフトを見つけてこないといかんねえ。ジーコ的な「往年のスター」は、既にいそうだけれど。

(それはそれとして、20世紀のチェンバー・オーケストラとは何だったのか、通史的にまとめるのは面白そうな仕事だろうなあ、とは思うけれど。大阪・関西にも戦後ずっと様々な試み、盛衰の歴史があって今日に至ってますしね。昨日今日降ってわいた話じゃない。)