山田・新垣・ベートーヴェン・マーラーの「音楽そのもの」に向き合うとしたら……

先週の大フィルの演奏会では、山田和樹が「皇帝」と「英雄」を振っていた。ソリスト(金子三勇士)も含めてアンコールは潔く一切なかったので、最初から最後までステージにはEs-durだけが響く。意図的にそうしたのでしょう。

サムラゴーチのゴーストの人が書いた交響曲のゴール地点より一貫して半音低いわけですね。

といっても、

最初のところでEs、As、Bがドーンと響いて(ピアニストはカデンツァのパッセージの間も意図的にバスを残して、ハーモニーの柱がちゃんと聞こえるようにしていた)、色々あってから小首をかしげるような木管の9の和音に乗って、ピアノがコマネズミみたいに半音階でちょこまか走りながら入ってくる「皇帝」のEs-durはふくよか。

(直後にウェーバーが同じ調でコンチェルトを書いているのは、以前学会で西原稔にも指摘されたけれど、この曲の響きの良いEs-durに相当に触発されたんだろうと改めて思う。)

「英雄」のEs-durは、展開部でギアを一段階ずつガクンと切り替えるように半音でスライドして転調して異様に筋肉質。

2つのEs-durは、姿が随分違いますね。

「皇帝」は、緩徐楽章がH-durで色合いを一変させて、どうやって戻るのかと思ったら、ドラマの場面転換みたいに、あっさり h -> b と平然とバスが半音スライドして、あっという間にEs-durになる。(このバスが半音スライドすることによる場面転換の効果も、ウェーバーがコンチェルトシュトゥックのf-mollからC-durのマーチへ移るところでマネしてますね。)そうして終楽章の狩りの音楽は、展開部で七変化みたいにどんどん転調してみせたり、エンタメ度が高い。

そういうこと以上に山田和樹は、どちらの曲でもテンポや何やらをあれこれ細かく調整して、提示部の主調は、いわば「低い主音」、展開部があって到達した主調は、いわばオクターヴ上の「高い主音」(=高いところへたどりついた感じ)に聞こえるように工夫しているようで、ちょっと作為的とは思ったけれども、ほほえましかった。

(c-mollの葬送行進曲は、杓子定規であまりよくない。いずれにせよ、山田和樹は、やっぱり音楽「しか」聞こえてこないな。いいことなのかどうなのか。)

で、ベートーヴェンには、Es-dur/c-mollの曲はあるけれど、E-durのオーケストラ曲というのはたぶんほとんどないんじゃないか、ハイテンションにしたいときは一気にA-durへ飛び上がってしまうし、ひょっとすると、オーケストラをE-durで良好に響かせるのは、チャイコフスキーやマーラーの時代にならないと難しかったのだろうか、などと考える。

だとすると、新垣のシンフォニーの最後がE-durなのは、この人の「古典様式のスキル」が古典派までは届いていないということなのだろうか。どこをどの調にするか、までは指示書に書いてないはずだ。

(もちろん、ベートーヴェン風のEs-durで譜面を書いたとしてもオーケストラがそれをピリオド奏法で鳴らしてくれる保証はどこにもないので、モダン奏法前提でE-durを書く方が現実的ではあるわけだが……。このあたりの、様式模倣といっても「非歴史的な調性音楽」しか書けていないことを指摘することによって、芸大の小鍛冶邦隆が「しょせん絶対音感という抽象的な作法を金科玉条とする桐朋のソルフェージュ教育はこの程度」と言い出す作曲家業界の内ゲバを夢想する。

最近の日本の作曲家が書く吹奏楽のスコアが後期ロマン派の切り貼りのように見えるものになっているのも、マーラー、ラヴェル、シュトラウスは「技術」でマネできるけど(既に戦前・戦中の深井史郎や大澤壽人や山田一雄や尾高尚忠もやってるし、このスタイルは20世紀初頭のイタリアや東欧などのオーケストラ後進国で大流行した、感染しやすいスタイルなんです)、古典派・ロマン派は技術だけでは書けないからだと思う。バロック以前になると、再び、歴史的な知識を加味した「技術」で書けるようになる。

器用仕事でバルザックのような小説は書けないのと、おそらく根は同じだろう。

日本の作曲教育=「課題の実施」なるものの限界が露呈している、と私には思える。たぶん、小鍛冶邦隆はそのことに気づいている。)

……などと思っていると、今月の大フィル定期は、G-durではじまるのに、静かな静かな天国をE-durで歌って終わるマーラーの4番だった。

去年のウルバンスキは、この曲にこんな音型がある、あんなリズムがある、と宝探しするような演奏だったけれど、デスピノーザは、マーラーにはこんなに鮮やかな感情があふれている、しかも歌曲は工夫がたくさん、ということを教えてくれて、オタク的でなく人間的。オーケストラの鳴らし方も声との相性がよさそうで(前半はトリスタンのイゾルデの前奏曲と愛の死)、オペラが得意そうな人ですね。

オーケストラは、映画を大きなスクリーンで見るようなものだから、「音楽そのものに向き合う」モードも、目をこらすようなことをしなくても大写しで聞こえて、なかなか、よろしいな。作曲家もそのつもりで書いているし。

小さなスクリーンのアート系シネマ(ゴダールとかATGとかにシネフィルが集うような)と、大きなスクリーンの映画館(ハリウッドの新作に立ち見が出るような)が両立するように、ちっこい会場とでかいホールも、難しいこと考えずに共存できて当たり前だよね。