上野のお山ではバッハは純正フランス人である?!(「《音楽の国フランス》の神話とその起源」を誰かが書いてほしい)

[ケルビーニに関する記述を2カ所に加筆。まさか「ケルビーニもまた純正フランス人である」などと言うわけにはいくまい(笑)。あと、池内友次郎についてのわたくしの意見もちょっとだけ補足。]

バッハ様式によるコラール技法: 課題集と60の範例付き

バッハ様式によるコラール技法: 課題集と60の範例付き

バッハがマタイ受難曲でフリギア旋法のコラールにどのように和声付けしたかを解説する小鍛冶邦隆の序文がとても面白かった。古い様式(教会旋法)のメロディーに新しい様式(通奏低音)のハーモニーで対応した実例を示すことで、このコラール旋律の扱いは、メロディーとハーモニーの関係と、バッハの歴史的な位置の両方を考える格好のサンプルになっているんですね。

それは同時に、長短調であったり旋法的であったりするメロディーによる対位法の修行と、長短調和声もしくは協和・不協和の取り扱いに関するトレーニングを曖昧に混濁させる習慣を止めて、ヨーロッパの伝統的な書法における線と響きの関係の学習を、古い様式から新しい様式へ転換していく歴史の流れを背景に見据えて再編成しようとする彼の学校のカリキュラム改革のプログラムとも連動しているのでしょう。よく知りませんが……。

とても賢い「着手」という感じがします。

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それにしても、このサンプルはこの問題に関連していろいろなことを考えさせる。

音楽家としての位置、あり方という点でいうと、バッハ本人が、古い様式と新しい様式の臨界面、インターフェースを工夫しなければならない役回りを相当はっきり自覚して、問題にラディカルに取り組む人だったらしいところが興味深い。そしてそれは、小鍛冶のこれまでの著作でも既にある程度示されていたわけですが、

バッハは、解法をひとつに決めるのではなく、こんなやり方もある、あんなやり方もある、と次から次へとパラフレーズしてみせるんですよね。

ここでも、ひとつの作品(マタイ受難曲)のなかで複数の和声付けをデモンストレートしているわけですが、他の作品、たとえば無伴奏の器楽の舞曲(ヴァイオリンやチェロ)では、単線のメロディーだけで和声進行を示すようなことをやっている。特定の和音の連結の際に、どの声部のどういう進行がキモなのか、ということを熟知したうえで、その一番大事な声部進行の「くせ」をつかんでおけば、実際に三和音が鳴っていなくても和声機能を示すことができると思ったわけですね。つまり、まだ確立して百年くらいしか経っていない調的和声のスペックを職人として熟知している。

そしてこれは、音の具体的な動きの「くせ」が重要だ、という発想に、旋法の世界で育った伝統的な態度が応用されているようにも見えるし(旋法というのは煎じ詰めればメロディーの節回しの「くせ」の集積……)、メロディーがハーモニーになり、ハーモニーがメロディーになる、ということで、調的和声が、従来の旋法とは違う発想による構造を組み立てうることに気づいていたということでもあるかもしれない。

先の著書では、コラールのバッハによる和声付けにおいて、内声にモチーフの統一の萌芽のようなものが認められるとしていますが、メロディー自体が、旋法的でなく調的なハーモニーを内包するように作られていれば、線と響き(水平と垂直)の関連づけはラディカルに促進できるはずですし、実際、ドイツの器楽書法はそういう方向へ進んだ、と見ているわけですね。

「運命」のジャジャジャジャ〜ンは、モチーフ自体が「G-Es/F-D」というように、開いた和音連結(I→V7のような)を暗示して(ただし、バッハが無伴奏舞曲で使ったほど一意に和声進行が特定されてしまうとモチーフとしては使い勝手が悪いので、適度に没個性的な音の並びが選ばれており、そのあたりのさじ加減がベートーヴェンの特徴なのかもしれませんが)、こうしたモチーフの特性は実際に楽章内で活用されますし、こういう発想の先にセリーというアイデアが出てくる、という風に、ひとまずおおざっぱに言えるかもしれない。

(ロマン派の場合は、モチーフ自体が個性的になる傾向があって(ワーグナーのトリスタン和音とか)、このあたり、決して直線的な発展ではないと思いますけれど。)

ともあれ、教会旋法という、線的な動きが一定の作法(モード)に従っていればよくって、あとは細部の仕上げ(様々な禁則)に気をつければ、たいてい良好な響きを保ちうる様式とは、まったく違う世界がそこに開けたということですね。

(旋法の世界は旋法の世界で、あくまで声の芸=歌だったので、息やら何やらの制約があったはずですし、その制約のなかで、良好な響きを維持するのが容易である特性を最大限に活かしてリズムに仕掛けを施したり、ゲームめいた多声書法の様々なテクニック=対位法を開発したりしたわけですが……、今日フーガと呼ばれているゲームも、そのような多声音楽のテクニックの枠内にあったときと、調的和声の新しい可能性を取り込んだときでは、できることが変わってくるんだから、いきなりフーガを作る、というのは、やめておいたほうが教育上、混乱が少なかろう、とそういう判断になるのも、合理的・理性的に思えますよね。)

旋法による第一作法(教会音楽)と、通奏低音の第二作法(劇音楽)が、TPOとして、社会的な文脈のなかでごく自然に使い分けられていたイタリアや、ルイ14世の権勢を背景にして新しい様式の宮廷文化(舞踊と祝祭)を強力に推し進めたフランスではなく、そういうのをほとんど手当たり次第に後追いする一方で、宗教的にはカトリックに反発して簡素な歌唱を独自に伝承した「後進国ドイツ」のルター派の職人さんが、混沌とした文化状況に置かれていたからこそ技術的に興味深い領域を切り開いた、というのも、面白い話だと改めて思います。

民謡の和声付けに悩んだ19世紀ペテルブルクの作曲家たち(バラキレフの一派)とか、グレゴリオ聖歌を「再発見」したレスピーギとか、「遅れた地域」というポジションに追いやられた国や地域の人たちは、調的和声の周縁・外部でその後も似たような苦労をすることになり、昭和の日本の作曲家が「日本的和声」という議論をしたのも、似たようなところがありますね。

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さて、しかしそうなると、「世界最高の教育機関」を自負するフランスの国立高等音楽院(のノウハウを直輸入していると称する東アジアの国家機関)が、そんな原理的に「辺境の怪しげな技法」としてしか発生し得ないであろうような代物を、あたかも、完璧の上にも完璧を期すための最新のアップデータのような装いで導入するのは、どういう理路であろうか、と思わないではない。

だって19世紀のパリは、そんなバッハの先に切り開かれた技術的達成をひっさげて登場する「ドイツ系」に席巻され続けていたわけですよね。イタリアから来たケルビーニは、長く傍流で、むしろウィーンの音楽を当人も意識していたようだし、ウィーンやドイツで支持されたところはのちのベルリオーズを思わせます。そしてマイヤベーア(バッハ直系ではないけれど)がいなけりゃ、オペラでイタリアに対抗できなかったし、リストもショパンも、当時のスター器楽奏者たちは、ほぼ全員、系譜としては「ドイツ派」です。

具体的な経緯は私にはわかりませんが、フランスの現状の教育システムは、どこかの段階でこういう現実を認めて、それでコラールの和声付けというドイツ流の修行を取り入れたということじゃないのでしょうか?

(数学でも、証明は言葉でやらねばならない派、みたいのがあって、記号操作(代数)はイスラムから来たらしいですし、幾何学でも、作図に頼るのは邪道だという考えがあったりしたらしい。バッハを入れるのは、そういう風に異なる種類の発想を入れる決断だったりしたんじゃないか。たとえば、調的和声の教科書が、「こういう和音連結のときにはどの声部をどう動かす」という規則の羅列になるのは、たとえば池内友次郎の教科書がしばしばその形式で記述されるのを見ると歳時記(春の季語はこれで、夏はこれで……の羅列)を私は連想しますが、同時に、長短調を音の動かし方の「お作法」(=モードに近いもの)の集積として把握しようとする態度のようにも見える。本当に申し訳ないのですが、私には池内がバカに見えてしかたがないのです……。職人的なわざの世界では、やっぱり発想を転換したり、切り替えたりするのは容易ではないのでしょう。そしてそのような「流派」の保守にのみ汲々としていては、技術の可能性を固定して、ダイナミックなイノベーションを阻害する危険をはらむと思わざるを得ない。池内は、音の動かし方に「日本人のくせ」(=和臭)が入り込むことを極端に忌み嫌ったけれど、「和臭」を抜くための懇切丁寧なお作法・お稽古・反復練習自体が、きわめて「日本的」で、彼の流派独特の「モード」を生み出している。ミイラ取りがミイラになっているというか、笑えない戯画のように思えるのです。閑話休題。)

19世紀末のフランスには、一方でスコラ・カントルムなどの動きがあって、そんなことせずにグレゴリオ聖歌を教育・文化の基礎にしろという「新しい音楽教育をつくる会」みたいなのもあったけれど、やっぱりバッハのコラールは、ルター派だけどやらざるを得ないというところに落ち着いたのでしょう。

(ちょうど、右翼の人がそれをどう思い、どう説明しているのかは知りませんが、日本の宮廷が大陸から伝わってきた楽器や器楽合奏や舞いを今も伝承しているように。)

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で、パリでコラールの和声付けを勉強するのは、フランスにおけるドイツ音楽研究の大きな柱、と見て間違いないと思うのですけれど、そんな風な、これが外国音楽の研究なんだという言い方をしないのが、どうしてなのかな、と思うんですよね。

当人たちには、もはやバッハが外国人だという意識すらなく、当たり前に学んでいるのかもしれないけれど、わたしら日本人は、これとは別にドイツ人によるドイツ音楽の伝承、教育法や研究があるのを知ったうえでフランスへ行くわけだから、当然、フランスでバッハを学ぶのってなんだか回りくどい話だなあ、と不信を抱いて当然だと思うのですけれど、なぜ、そういう話が出てこないのか?

フランス人のほうが頭がよくて、音楽性に秀でていたり、教育システムがすぐれていたりするから、ドイツ人から学ぶよりフランス人に教わるほうがいいんだ、と、そんな話でいいのかどうか。

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ひょっとすると、パリでの公式の説明として、ドイツ音楽の影響みたいなことをあまり表だって認めたくない風潮がないわけではないかもしれないのだけれど、

(ベートーヴェンもロマン主義もワグネリズムも、フランスでは、ドイツ的なものは、まずは非主流派として入ってきて、その連中があとでヘゲモニーを握るのだ、それがフランス、みたいな言い方がありますけれども……、ユゴー(ロマンチスト)にしても、サルトル以後のフランス現代思想(その実体はマルクス・ニーチェ・ハイデガーの密輸入だと言われたりする)の人たちにしてもそうなんだ、とか、)

でも、小鍛冶邦隆の思考のありようを見ていると、フランス人も、今はもうそこまでナショナリスティックに凝り固まったイデオロギーで教育システムを組み立てているわけではないんじゃないか、という気がする。そんなことを言い張るのは無理だもん。

あくまで想像ですが、パリにおける以上に、「日本におけるフランス派」が頑固なんじゃないか。なもんで、パリだったら、いいもんはいいと認めて学ぶスマートな学習態度があり得るかもしれないのに(というか、著者の方々はおそらくそういう自由な気風のなかで様々な技法を取得して戻ってこられたに違いないはずなのに)、同じことを日本に導入すると、バッハによるコラールの和声付けの練習問題集の表紙に、日本語書名の2倍のスペース、大きな活字で「フランス語の書名」が入る、という奇妙なことが起きる。

なんだか、屈折は根深いんだなあ、という気がします。

幕末に、徳川はフランス式で軍隊を作り、薩摩はイギリス式を採用する、とか、陸軍は軍楽隊がフランス式で、海軍は英国式だ、とか、そういうのが、外部の人間にはわからない形で血肉化していて、一度「フランス」で濾過しないとバッハを藝大に導入するのはまかりならん、みたいなのが、今もあるのかなあ、と、思ってしまいましたです。

国家の根幹に関わる部分は「純正品」で「統一」されておらねばならぬ。ここはフランス、あそこはドイツ、などというまぜこぜで血筋を濁らせるなど許しがたい、みたいな感じなのかしら。

「汚れ」を忌み嫌う宗教の変種という感じにも見えますね。実に興味深い。

著者の判断なのか、出版社(音楽之友社)の判断なのか、わかりませんが……。

(あと、新しい作曲理論の本が出ると、まるでガンマニアや兵器マニアが各国の軍隊の装備の仕様やら何やらを寄ってたかって語り合うように、音楽理論書の技術的なスペックを論じる、という風な、作曲が「男の子の趣味」であった時代の気風は、まだこの先も有効なのかしら。

「音楽は女々しい」という周囲の決めつけを乗り越えて、大正・昭和の大日本帝国の未来ある若者が次から次へと作曲家を志したその積み重ねが東京音楽学校に作曲専攻を設置させた、と言えないことはないかもしれず、作曲には、鳴り響く武器・兵器のコノテーションが、ひょっとすると、今もほんのりあるかもしれない……(川島素晴さんの、人斬り以蔵風にクールな切れ味、とか)。まあ、男の子が「生産・生殖」への関心を肥大させる思春期ってのは、大なり小なりそういう「男のシンボル」を求めるものか。ドン・キホーテがあこがれたのも、騎士=軍人・兵士ですもんね。)

[以上、自分の「くせ」とか「慣れ」とかに脳みそが頑迷に浸食されている人を、バカと呼ばずに取り扱う辛抱強さは、大事だけれども辛気くさいなあ、と思いながら書いた。]

ケルビーニ 対位法とフーガ講座(ルイージ・ケルビーニ 著/小鍛冶邦隆 訳)[単行本]

ケルビーニ 対位法とフーガ講座(ルイージ・ケルビーニ 著/小鍛冶邦隆 訳)[単行本]

ケルビーニを「フランス近代音楽教育の祖」と位置づける議論が、「フランス人バッハ」論に先行しているわけですが、

先に、

「イタリアから来たケルビーニは、長く傍流で、むしろウィーンの音楽を当人も意識していたようだし、ウィーンやドイツで支持されたところはのちのベルリオーズを思わせます。」

と書いたように、ケルビーニのパリにおける公的な立場は長らく微妙だった思われます。ケルビーニとバッハに関する小鍛冶邦隆の一連の仕事は、パリ音楽院がその立ち上げ段階から既に「純正フランス」という発想とは違う形で設計されていたことを明らかにするものだと見なければおかしい。「バッハもケルビーニもパリ音楽院の充実に貢献したのだから、外国人だけれども名誉フランス人である」などとするフランス中華思想的な歴史修正主義を信奉するのでなければ。

小鍛冶邦隆のこのあたりの歴史認識は、いつも玉虫色で、それはおそらく、どちらの陣営にも受け入れられる玉虫色にしておかなければ物事、カリキュラム改革が前に進まない、という政治判断なんじゃないかと、私は推測しているのですが、どうなんでしょう。

この種の議論を水掛け論に終わらせないしっかりした土俵をこしらえるためにも、池内友次郎について、実証的な研究や評伝が待望される。