右と左とお金と文化と、最近気になる「えべっさん」

再び啓示を得たので、右と左のことを考えてみる。

右とか左とかいうのは、基本法でルールを決めて議会で熟議、とか、投票による代表選びとか、政治の各局面にデモクラシーが入ったあとに出てきたレッテルであるらしい。

フランスで、ブルジョワさんが言葉巧みに農民を焚きつけて暴動を起こして王様一家の首をちょんぎる実力行使ができた勢いに乗って、それらしい理念と機構の雛形を作ったときに(←この体制自体はコルシカ生まれの軍人のクーデターにより10数年で瓦解して、そのあと百年くらいフランスはずっとゴタゴタしているのだから、実体としての現在の基礎というより、近代民主主義の神話的起源のようなものだと思うけど)、まるで修学旅行のバスで不良さんが一番後ろに陣取るみたいに、同じ主張をもつ人たちが議場のなかで一緒に集まって席を取ったのが、右と左(と中道)というレッテルの由来だと聞く。

でも、見てると、右さんも左さんも、すぐに場外乱闘をはじめちゃいますよね。

右の扉から議場の外へ出た人たちは、教会とか王族のように、とりあえずのデモクラシーができる前からの実力者で、そのせいで冷や飯を食わされている勢力と、軍隊のような、とりあえず今はデモクラシーの用心棒をやってるけれども、技術と実力を認めてくれるなら、別に寝返ってもかまわない、と考えがちな高度技芸保持者の集団を上手に口説いて、政権転覆を謀る。昔はよかった、昔に戻ろう、というイメージを旗印にする保守・コンサバが基本みたい。

左の扉から議場の外へ出た人たちは、地下に赤いネットワークをはりめぐらして、やっぱり最後は武力闘争だ、しかもこっちは、産業(勤勉)の申し子である労働者さんたちが手を取り合って進もうというプランなので、武力闘争のやり方も勤勉で、革命は一度はじめると永久に続くのだ、ということを言ったりする。政治における勤勉革命、革新に次ぐ革新の人。

まあ、しかし場外乱闘がつきものなのは、考えてみれば当然で、一触即発にもめることが目に見えているからこそ、頭を冷やすためにデモクラシーのように手順が面倒なしくみ、生々しい対立をフィルタリングするメカニズムを噛ませようということだったはずだし、でも、デモクラシーでフィルタリングすると、ここはうまく合意・調停できるけれど、こっちはどこをどう工夫しても双方の主張が平行線で交わらない、というようなことがくっきり、はっきりするわけですから、かえってもめ事に燃料を投下して、炎上を煽る結果になる場合がどうしても出てくる。

最悪の場合は止めろといってもケンカになるかもしれないが、それでも、やみくもに殴り合うより、一度とことん話し合って、頭を整理してからケンカしたほうが多少はマシであろう、という、理想論とはほど遠い苦渋の決断がデモクラシーというものなのでしょう。

で、理由はどうあれ、口げんかであれ、生命と身体のやりとりをするリアルなけんかであれ、もめ事の当事者になるのは何があっても勘弁してほしいと思う人たちは、商売に邁進したり(=もめ事は金で解決)、俗世間に背を向けて、学問とか文化・ゲージツに邁進したり、本当に脱俗して宗教家になったりする。

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最近ふたたび右とか左とか、炎上とか、そーいう語彙をよくみかけるようになったのは、実際にそんな行動に参加するかどうかはともかく、もめ事を見物するのが実は嫌いじゃない人が思ったよりもたくさんいる、もしくは、そういうのが好きな人たちはもう異常にそういうのが好きでハマっちゃう魔力・吸引力があって、めちゃめちゃアクティヴに活動をはじめちゃうものだ、ということがあらわになっているのでしょうか。

まあ、日本も少し前までは、大学へ行くようなそれなりに弁が立ち、若くて元気が有り余っていて、我々が将来の日本を背負うのだというプライドを勘違いかもしれないけれども胸に抱いた人たちは、政治に足をつっこむのが相場だったようですから、ハシカや風疹のようなものだとあきらめて、死なない程度に一度は「お試し」しておいたほうがいいものなのかもしれませんね。

(いわゆる「ネトウヨ」さん、というのは、外見上「若者」がやっていることになっているけれども、実は主たる年齢層は30〜40代だという説があるらしい。もしそうだとすると、ちょうど大学がノンポリで無風地帯のレジャーランドになって、若い頃に政治の予防注射を受ける機会を逃した世代が、あとから「遅れてきた青春」として政治をやりたがっているのが、「ネトウヨ」なのかもしれない。私には、若者が右傾化している、という雑な説明よりも、この見方のほうが実感に合う。)

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でも、人間は一方でいつまでたってもアホだけど、どうしようもなく無能なわけでもなさそうだ、と言えばいいのでしょうか、

フランス革命が近代社会とデモクラシーの原点だ、革命だ、クーデターだ、とワアワア言ってから200年以上経ってみると、もう兵器の破壊力が強大になりすぎて、金もかかるし、国家間戦争は無理な情勢になっているようですし、グローバリズムとか資本主義の全面化とか、というのは、さっき少し書いた、もめ事は煩わしいから金で解決の軟弱派が、結局、一番筋がよかったということなのかもしれない。

昭和の歴史を眺めるだけでも、

満州・大東亜共栄圏の夢破れた人たちが戦後のメディア産業・文化産業に転向したり(東映は満州帰りの巣窟だと言われたし、「世界のオザワ」は満州な人たちの希望の星なわけですよね)、全共闘の人たちがサラリーマンとして出世したり(彼らは「戦争を知らない団塊」でもあり、危機管理がなってない、と最近さんざん叩かれてはいますけど)、音楽の永久革命のために闘ったゲンダイオンガクの人たちを、(ダマされていたり、心ならずのアルバイトだったりするかもしれないけれども)映画やゲームや商業音楽でリサイクルしてくれたり(武満徹も黛敏郎もみんなそうだ)、物事を金で解決する思想はメチャメチャ強いし間口が広い。

もう、これでいい、という気になりそうだ(笑)。

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で、やっとここからが本題なのですが、

改めて考えると、政治の人は、通常、ほぼ必ず二枚舌三枚舌ですよね。

右さんは、秩序を愛して、上に従順である一方で、下に対して、しばしば「今はこらえてくれ」とか、鉄拳制裁とか、反作用的に厳しいところがどうしても出てくる。

左さんの場合、史的唯物論は「弱きを助け、強きをくじく」の現代版で、連帯とか同志とか友愛めいた仲間意識が強い反面、それは権力・強権・テイコクシュギだ、と認定したものに対しては、何やってもいい、手段は選ばぬ、すべては革命のためだ、と言ったりする。

こういうダブルスタンダートは、仕方がないところがあって、もともと、調停・解決不可能なギャップに直面したところから政治がはじまる。正直に原理原則で押し通すことができないところから先のぐしゃぐしゃこそが政治なわけですから、そら、相手に応じて態度や物の言い方を違えるくらいのことは、せな、しゃあない、のだと思います。

「若いもん」が一度は政治の予防接種を受けた方がいいのも、おそらく、そういう事情による。正直が通らんことが世の中にはある、ということを、深手を負わない程度に経験しといたほうがええのでしょう。

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そして、問題はその先ですわ。

政治の「汚れた世界」に失望して、学問・真理の探究や文化・芸術・美の世界に希望を見いだす、

とか、

「汚れた世界」の本当の勝者、覇王となるべく、「弱肉強食」な経済の世界へ身を投じる、

とか、

ロマン・ロランか、あるいは、松本清張か、という感じですが、

これは、ほぼ確実に、ダメっぽいですよね。

真理や美に癒しを期待されたり、妙にギラギラして金勘定で「勝った、負けた」をやられると、場が荒れて、周囲が醒める。

そしてそういう歪んだ欲望は、必ずどこかで馬脚を現す。

「音楽をわからん奴とは口もききたくない」というのは、ゲージツ愛の言葉ではなく、ゲージツを口実にして、人間を線引き・差別して、いい気になっとるだけやんけ。そういうのこそが「政治的発言」、音楽に政治を持ち込むな、という言葉は、こういう時にこそ言われねばならんと思うんですよね。

政治がやりたいんだったら、他にもっと存分にできる場所があるから、そっち行け、ということです。

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あと、最近、どうして、えべっさんが商売の神様とされてるんかなあ、ということを考えるんですよね。

海の向こうから流れ着いた存在だから流通・トレードのシンボルになった、というのが、納得しやすい説明ではあると思うのですが、耳が遠いという伝承があったり、座ってはるのは足が不自由なんや、と信じられていたりしますよね。なんで、そういうことになっとるのか。

歴史的な検証は、ちゃんと丁寧にやらないといけないし、やっていらっしゃる方がいるに違いないと思いますが、

やっぱり、生き馬の目を抜く、とか、急所を機敏かつ的確にためらいなく狙い撃ちする、とか、そういうゴルゴ13でミッション・インポシブルな発想だけでは、商売というのは立ちゆかへんで、という教訓が流れ込んでいるような気がするんですよ。

だからといって、慈悲とか福祉とか再配分、ということになると、それは経済の外部にある「政治」の話になっちゃいますし、どうも、そういうことではなさそうな感触がある。

弱肉強食でないものとして経済がある、という洞察を端的に伝えるのが、えべっさんなのではないかなあ、と思うんですよね。

商売繁盛で笹もってきて、もうちょっと考えましょう。