ロマン主義と付き合うのなら、アイロニーではなく「越境・架橋」を目指すべし

色々やらねばならないことがあるのだけれど、何か「来てる」感じがして、両方まとめて最後まで読んでしまった。

シンメトリーの地図帳 (新潮クレスト・ブックス)

シンメトリーの地図帳 (新潮クレスト・ブックス)

数学ガール/ガロア理論 (数学ガールシリーズ 5)

数学ガール/ガロア理論 (数学ガールシリーズ 5)

多元方程式を解く、という代数的な行為(パズル的・ゲーム的で、それゆえ近世の数学者が「芸」として一般人に見せる「飯の種」にもなっていた)と、定規&コンパスで作図する、という幾何的な行為(ユークリッド以来、公理・定理・証明といった西欧流数学のシステムを「知」として「見える化」する主戦場で、数学が「ボ(beauty)」http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20140130/p3 とふれあう人気領域でもある、という理解でいいのでしょうか)。両者が置換というアイデアで架橋されて、その向こう側に体(ドイツ語では Körper なのに英語では field なんですね)とか群(group/Gruppe、ちなみに集合は set/Menge なのか)とかのアイデアが開けて、改めて「数って何だろう」と考えさせる。そういうお話であるようです。

数学としての手順を具体的に追いかけるのは途中で諦めましたが、たぶん、「物語」としてはそういうことでよさそうな気がする。

で、おそらく、フェルマーの最終定理やリーマン予想が一般向けの「読み物」として面白く成立するのも、むき出しの数学として説明すると難解になってしまいそうな、ほぼ同じ設定の物語を紡ぐ格好の題材だからなのでしょう。

代数と幾何(そして解析)は、おおよそ18世紀までに道具立てが出そろっていて、いわゆる「文系」でも、それぞれの入り口からちょっと入ったあたりまでのところを教わるけれど、19世紀から20世紀に大きく展開した抽象数学にはドラマチックな発想の飛躍があって、ガロアという、はちゃめちゃなアンチャンが、その離陸の決定的なポイントのところにいるらしい。

偶然なのか必然なのか、20世紀が終わったところで、どうにかそういう抽象数学を「物語化」する目処と道具立てがそろってきた、ということなのかなあ、と思いました。

(しかもそれぞれの「お話」は、前世紀末のポモなヒョーロンカさんたちのお気に入りだった「不完全性定理」で「ゲーデル的問題」の終末論な仰々しさや、さらに前の昭和戦後派インテリが好きだった「相対性」や「不確定性」の極小・極大双方へ向けて無限の曠野が開けた感じとも違って、一行で言えるシンプルな式や問いをコツコツ解く作業を続けていくと、その先で世界一周の大旅行をすることになって、ゴール地点に割り切れたような割り切れないような半端な体裁のリアルが見えてくるオチになっている。懐かしい成長小説のようでもあり、でも、その過程で見えてくる景色はイマっぽい。)

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何に似ているかというと、(似て見えるようなまとめかたを私が故意にやったからではありますが(笑))音楽史で、最近ようやく、19世紀から20世紀への流れをひとつづきの「お話」に仕立てることができそうな感じになっているのと、同型じゃないか、と思ったのでございます。

バロックのダンスや古典派のパーティの賑やかしのような合奏曲から、ソナタ(シンフォニー)というものがせり上がって、ベルリオーズやリストのような人がそのとらえ方・使い方をいかにも19世紀のロマンチストっぽいものに変換してしまったことを説明することの難しさと、よく似ている。

そしてこれは、偶然似ているんじゃない気がする。

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実は19世紀の器楽は長らく(=20世紀前半の新古典主義や新即物主義の時代には)「古典派の亜流・水増し・感情過多に歪んだマニエリズム」と言われておりまして、この時期の音楽史では、研究書・概説書も、たいていそういう見方で書かれています。シューベルトやシューマンやリストのソナタ・交響曲は、モーツァルトやベートーヴェンの普遍的な古典美を崩しており、それがロマン派のロマン派と呼ばれるゆえんである、ということを20世紀前半の音楽史家は、真顔で主張していたんです。

でも、戦後、音楽分析が抽象数学っぽい概念・道具立てを使うようになるにつれて、まずは古典的なソナタが関数 function と捉えられるようになり、その前提の先で、19世紀のファンタジーや交響詩やソナタや多楽章管弦楽を、「情念のほとばしり」じゃなく、permutation や transformation や configuration などとして把握する試みが出てくる。

わたしらが学生の頃は、そういうのが出そろって、新しいタイプの「問題史としての作曲史」を通覧した本が出るようになっていた時代ですから、まあ、必死に勉強しましたよ。

(民族音楽とか、美学とかやるのは、音楽をダイレクトに扱えない「アホ」なんだ、とかなり高慢に信じておったかもしらん。音楽の分析ができて、手堅い歴史の実証があれば、他は何もいらない。「○○音楽学」とか「音楽××学」などの、いわば「キラキラ」な応用は、あとからいくらでも自炊できるはずだと思っていたし、今も基本的にはそう思っている。「学問」としてやるんだったら、アイデア・表現ともに、由来のわからんコモンズにオノレを接続して甘えたらイカん。)

で、こちとら、文系と理系がぱっくり分かれた日本の大学の前提で読んでいるので、世の中には頭のいい人がいるんだなあ、と感心するばかりでしたが、感心して「ほお」とか「へえ」とか言うばかりではアホなので、今より多少は頭が回ったであろうと想像される若い頃には、いちおう、連中の議論の進め方を解析して、同じ論法でこの曲を語るとしたらこうなるし、あの現象を語るとしたらこうなるはずだ、等々とあれこれ実地に応用問題を独習しようとしたし、その結果は、連中が出してくる議論と大きく食い違ってはいないので、まあ、この理解で大丈夫なんだろう、という程度には身についた(と思う)。その程度には本気で勉強しましたよ。

そしてどうやら、この「頭のいい感じ」は、ソナタとかそういうのを把握するときの構えが抽象数学っぽい。

で、どこがどう抽象数学っぽいかというと、それは、和声とか対位法とか主題展開とか形式とかジャンルとかの歴史的に構築された諸領域を、相互に通底するものとして取り扱って、縦横に架橋・横断・越境・相互乗り入れしながら「作品」を語るし、そういう風にしか、技術的達成としての「作品」を語り得ないんだ、という音楽分析の覚悟が抽象数学っぽいのかもしれない。

そのことを改めてはっきり確認できそうなので、だったらこれは最後まで目を通しておこう、と思いながら、ガロアの物語を読んだのでした。

ピアノ協奏曲の誕生 19世紀ヴィルトゥオーソ音楽史

ピアノ協奏曲の誕生 19世紀ヴィルトゥオーソ音楽史

小岩さんが偉いのは、言葉遣いは平易だけれども、そういう現代的にリライトされた通史の存在しないコンチェルトというジャンルで、同等の水準を目指して、ひととおり書き上げたところだと思う。

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もちろん、「クラシック音楽」が事実としてそこまで凄いもんなのかどうか、については、諸説が分かれるのはしょうがない。

それから、数学の様々な道具立てを直接的に音楽に適用すればいいんだ、などと思い込むのは、「似非インテリ」に過ぎないので、そういうのを相手にするのは時間の無駄。(作曲家にも、そういうの、いるよね。ソートイもバッハや十二音音楽のシンメトリーを語りはじめるところは、ちょっと危うい。数学的な処理・発想からヒントを得ることは、作曲にも分析にも十分にあり得ると思うけど、そういうのは、あんまり面白くない。)

でも、少なくとも、西欧が近代芸術音楽を大切に取り扱おうとするときの彼らの「本気度」、音楽作品をさばくインテリたちの現在進行形の知能がどういう種類と精度に達しているかを理解するためには、抽象数学が何をどうしようとしているのか、どういう「物語」に収まっているのか、という、あらすじくらいは知っておいたほうがいいみたい。

そしておそらく、そういうことが起きるのは、連中が「男女七歳にして席を同じうせず」みたいに、文系と理系を高校あたりではっきり分けて、あとは、恋愛禁制の掟があるかのように、お互いをおつきあいさせない、ほとんど話もさせない、別の人種・民族であるかのように隔離する、ということをしないせいじゃないかなあ、と思ったりする。

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なんというか、ガロアの話と近代ソナタの物語が一緒じゃん、と気づいたときの感じは、「君ら、そんな頃から付きあっとったんかいな、言うてくれたらエエのに、水くさいなあ」なのですよ。大人への階段は、まだ、上がる余地があったらしい。48歳が言う台詞ではないが(笑)。

ネトウヨ化する日本 (角川EPUB選書)

ネトウヨ化する日本 (角川EPUB選書)

そしてその水準から逆照射すると、ロマン主義からアイロニーを取り出す物語の復習(ポモとロスジェネの人たちが好きなやつ)で終わるのは、前半の現状分析がおもしろかっただけに、ああ、跳ばないのか、ハードルを超えないのか、と残念に思ってしまう。アイロニーよりユーモアがベターで、大胆に異化するのがベスト、という20世紀の「パフォーマンスとしての批評=どうすればウケるか」のハウツーは正直もう飽きた。(どうでもいいけど、英語読みでいくなら「ロマンティック・アイロニー」で、ドイツ語読みでいくなら「ロマンティッシェ・イロニー」になる。「ロマンティック・イロニー」は、湯桶読み風のちゃんぽんですよね。)

浅田彰と東浩紀は、ヒトとしてどうか、思想家としてとうか、ということとは別に、「頭がいい」んでしょうね。それがどうした、という話ではあるが、この世の中には、比喩ではない意味における「バカ/賢い」という尺度があって、別にこの尺度に現実的な効用はほとんどありはしないのだけれども、数学とかそういうのは、この尺度でヒトを測れてしまいそうだなあ、ということは、改めて思う。リアルに賢い人間が天下を取ると不吉な災いが起きるから、世の中は、そういう人間が率先してバカをやるような仕組みになっておるのだろう。少なく賢い(でも心根は悪くない)仲間を引き連れて。