ホワイトカラーに忍び寄る影?

ヤンキーな心性を持った人は昔からいて、階層がくっきり分かれたことで断層が顕在化しただけちゃうか、という冷静な「構築主義」は総論として間違ってはいない模範解答な気はするけれど、

それと同時に、今の世の中は、アラサー新中間層のホワイトカラーさんの間に、急進改革派ヤンキー組、みたいのが形成されやすいところがあるんじゃないかしら。

就職して仕事はテキパキこなせるようになったけれど、そうなるといろいろなことが見えてきて、「このままではアカんで」という焦燥が募っているときに、折しも実務を任される順番が回ってくる頃合いが来て、いっちょイテモウタレ、と一発かます。

で、そういうのが団塊世代の役員あたりには妙に受けがよくて、そういう連中を集めた二階級特進の特務班みたいのが鶴の一声で組織されたりする。

広告屋さんはそういうのを見つけて売り込みをかけるのが商売ですから、「これだ」ということでマイルド・ヤンキーともてはやす。

つまり、マイルド・ヤンキー論は、都市から疎外された田舎の逆襲、という物語を身にまとってはいるけれど、その物語を掲げて行われようとしているのは、今まで食い込むことのできなかった一枚岩の組織にも、その構成員の「ヤンキー魂」に訴えかけると、蟻の穴から掘り崩すように入り込めるに違いない、という、広告戦略なんじゃないだろうか。

(オボちゃんのケースも、年齢はおっさんだけどサムラゴーチのケースも、そういう一面がありそうでしょ。お堅いイメージの銀行にも、「倍返し」とメンチ切って土下座を強要するヤンキーが探せばいるはず、そこを狙え!とかね。)

で、その種の急進改革派が、中身は急造のハリボテで箸にも棒にもかからんものだったときにどうなるかというと、二階級特進特務班だった手前、上層部的には表沙汰にできないということで、思いっきり古くさい手法で面目を保とうとすることになる。

そしてそうやって、中年のちょうどわたしらくらいの年代とかちょっと下くらいの人たちは、上と下が大騒ぎしている真ん中で、なんちゅう世の中になったこっちゃ、と思ってる、みたいなことになってしまうのかも。

一つ前のエントリーで、身ぎれいにしとくのが基本だと思うよ、と書いたのは、いちおうそういう見立てを踏まえとります。皇道派のクーデターみたいのんでは壁を突破することはできない。どこかの市長さんがいいお手本なんだから、地道に明朗会計で「精算」していかないとね。

今年のテーマは、明るく楽しい日常業務、です。家も掃除してかなり片付いたので(笑)。

大阪―大都市は国家を超えるか (中公新書)

大阪―大都市は国家を超えるか (中公新書)

砂原庸介のまとめによると、大阪で都市計画が長い間ずっとゴタゴタしているのは、府で見た場合ですら、単体で回していく政治・経済圏としてはちと狭い、小さい、というのがあるみたい。だから、市域の拡大という話が出たり、かつては府域を西や東に広げられないか、というアイデアもあって、道州制というのも、そういう事情と関係がある議論のようですね。なにやら、関東軍が大陸へ進出したかった旧帝国のミニチュア、「持たざる残念感」の象徴みたいな地域であるようです。

だとしたら、「持たざる残念感」をシアワセに反転する術策の先進地、みたいに考えていかなしゃあないよね。(朝比奈さんがオーケストラに夢を託したり、米朝師匠が落語をもり立てたり、「文化も結構いけまっせ」とやったのは、戦後のプランとして割とうまくいったほうなのでしょう。)それやこれやとあって、さすがに今ではもう「お笑い」だけではもたなさそうなので、何か探さんといかんわな。

橋本クンは、目の付け所、問題を突くときのパフォーマンスは悪くなかったのかもしれないけれど、いまいち有望な具体案をまとめられなかったということになるんだろうね。各方面のややこしく込み入った話をまとめる座長のキャラじゃないし、ヤンキー魂は、電飾とか大阪城でバイク乗り回すとか道頓堀で水着になるとか何回でも選挙やるとか、広告屋さんの格好の餌食になることばっかりだしね。