デジタル・ヤンキー:電脳の非知性的エリート主義

話はそれほど複雑ではない。

「データのいわゆる「デジタル化」は情報社会というのがあるとして、そのメインフィールドではなく、サブの領域に過ぎないのではないか。」

ということに尽きる。

ここ数年いくつかの仕事で「デジタル化」なる作業をいくつか見聞したけれど、デジタルでないデータなり資料なり人間関係なりがない「デジタル」は、オトナが相手にできるものにはなりゃしないし、「デジタル化」してしまえば、元データや元資料がなくなってもいいか、というとそうはならない。結局、元データや元資料はそれとして保管しつつ「デジタル化」したデータをアクセス可能な状態でメンテしなきゃならないから、仕事やコストはむしろ増える。

夢のオール・デジタルな世界、というのは、IT屋にダマされてるだけだと思う。

(クラウドとかそういうのも、各種データを集めると色々メリットのある人や業者が、サーバの設置・維持・管理を肩代わりしてるだけだ。)

      • -

で、そう気づいてみると、例の「複製」という概念がかなり嘘くさい気がするのだよ。

「複製」と呼ばれてるものは、ほんとに「同じ」か?

ヒトが「同じ」であると扱ってるから「同じ」なのだ、みたいなトートロジーになってないか?

つまり、別の物体や状態を「同じ」と判断・判定するのは、実は随分と人工的・文化的な枠組み・作法が前提になってるはずで、そんな高度な文明を、あたかも自明であるかのように受け入れてその上に話を組み立てている時点で、欺瞞的なんじゃないかという気がしてきたのだが、反論はあるの?

(ちなみに、ベンヤミンの言う technische Reproduktion [技術的再生産、日本語文献ではしばしば「複製」と訳される]については震災前に色々考えた。→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20101225/p1

ーーーー

このあたりの何やかやを曖昧にごまかしとくから、今頃になって「デジタル化」に乗り遅れたら未来はないワ、と思い始めた人たちが意気揚々と乗り込んできて、可哀想なことになるんだと思うのだよ。

オレたちだけが暗黙に知ってる無数の前提が実はいっぱいあるくせに、黙ってるやん。それって新しい「ディスタンクシオン(差別)」以外の何やと言うの?

それを知らんと穴に落ちるのを自業自得と笑っていいのやろうか。「死期が近い」とか、そんなん、言うてええのんか?

(見苦しいだけやから、「言葉狩り反対」とか、そういう皮相な強がりいうなよ。)

誤字くらい、気づいたら淡々と直せばええがな。作者とテクストは、相対的に自立しとるんやろ、カルチュラル・スタディーズ的に、ちゃうのん?

(まあたしかに、YとかNとか、そういうしょーもない「見た目」をネチネチ言う先生たちがおったorおるけど、悪いとこ受け継いだらあかんよ。)