音楽の周辺の知的なものと、そうでないもの

「知的」という言葉が、ドイツ語だと「wissen 知る」から Wissenschaft 学問(=知ること一般)の語が出来ているから話は簡単だけれど、scienzia(知る)から来た science(本来、知ること一般、の意味だったんじゃないのかなあ、どうなんでしょう)とは別に、intellegere(= inter- あちこちから legere 集める → 選別する)から来た intelligence(選別する力or選別されたもの)の語があって、intelligent(良いものを選んでいる=目利きである)のほうを「知的」と呼ぶ習慣があるからややこしいですが(インテリ=選良 intellectual はまさにそういうことですよね)、

でもここでは、「知的」を「これはいったい何なのか、知りたい」という思惟の働きの意味で考えています。

クラシック音楽は「教養」であり、それを身につけたものは「違いのわかる人間=インテリだ」みたいに俗物根性むき出しな話は、どこかで勝手にやってください(笑)。

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人間は「なんだこれ」と知りたがる場合もあれば(=ここでいう意味での「知的」な営み)、なんでもええから、こうしよう、せねばならぬ等々という場合もあって、とりあえずここでは、そういうのを「知的とは違う何か」だと言うことにする。

で、音楽に対して、「なんだこれは」とアプローチすることもある/できるし、なんでもええから、こうしよう、せねばならぬ、という構えで接することもできる。

そして「音楽」なるものの側にも、「これは何であるか」という人間の考察が読み込まれている場合と、そうでなく、なんでもええから、こうしよう、せねばならぬ、でそうなっている場合がある、と想定しておおむねそれほど的外れではないでしょう。

とりあえず、「これは何であるか」という考察が読み込まれている状態を「理性的」とか「理論的」と呼ぶことにして、そうじゃない場合を「非理性的」とか「実践的」と呼ぶことにすると、4つの場合分けができる。

  • (a) 音楽の「理性的・理論的」な成分に「知的」にアプローチする
  • (b) 音楽の「理性的・理論的」な成分に「知的でなく」アプローチする
  • (c) 音楽の「実践的」な成分に「知的」にアプローチする。
  • (d) 音楽の「実践的」な成分に「知的でなく」アプローチする。

近代化が同時に西欧化であると思われていた時代には、(a)な感じに、すばらしき西洋音楽を「勉強する」という態度が燦然と輝いて、なおかつ、そのようなことができるのは「インテリ=選良」だけであったりしたので、いまもそういう状態こそが理想であるという風に懐かしむ向きがあることが知られていますが、

これはそう簡単なことではないので、(b)な感じに、ど根性かつがむしゃらな精神で音楽の「すばらしさ」(とされたもの)を攻略する動きをどうしても誘発してしまうことになりかねない。

(かつては、(b)の現れとしては、音楽とそれに関わる人々を「天才」とか「巨匠」とか「マエストロ」とか呼んで崇拝するパターンが多かったように思うのだけれど、最近は、音楽とそれに関わる人々をキラキラ感のあるポエムで讃えるのが、トレンドであるように見える。)

そして(a)と(b)の間には、王道的にわかってる人と、ガッツはあるけど、あれは覇道な成り上がりものに過ぎないよ、という「ディスタンクシオン」が発生してしまうようだ。

(申し訳ないけれど、私個人も、「天才」とか「巨匠」とか「マエストロ」とか「ポエム」が充満している空間には、あまり長くとどまっていたくないと思ってしまう。)

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一方、制度としての学問(←だけが「知的」を独占しているわけではないのは当然だが)では、(a)ばっかりやってるとネタが尽きる、ということもあるし、後続の者は新しいことをやらないと先人を出し抜くことができないので、音楽にはそんなんとは違う一面があるやんけ、という感じに、しばらくすると戦線が(a)から(c)へ移っていく。

(そしてこの際、学問の意義は「対象の貴賤」で決まるものではない、みたいな言い方で(c)な人が(a)の人を牽制する、などという作戦があったりもするが、それは、どちらかというと下らない派閥争いで、ほんまに貴賤がないと思うのであれば、両方やればいいだけの話である。)

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また、音楽で商売しようというときには、商売というのは、「差異」がありさえすればいいのだから、誰も手を付けていない(d)がひとしきり大きなもうけを生み出すことが十分にあり得る。

しかも、

制度としての学問というやつは、常に新しいフロンティアを探し求めていますから、(c)の鉱脈が枯れてきたと思えば、今度は、

(d') 「音楽の「実践的」な成分への「知的でない」アプローチ」に「知的に」アプローチする

というメタな感じの作戦を立てることになったりもする。

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で、人生というか世界は音楽以外にも色々あるし、ひとしきりつきあっていると、(a)〜(d)/(d')のそれぞれを適宜切り替えながらやっていけば、さほど大きな問題は起こるまい、という気がしてくるものなのではないかと思うのだけれど、

ちょうど家電製品の電源コードが、古くなってくると電線に癖が付いてしまって、何回まっすぐにのばしてもしばらくするとねじれてしまったりするように、(b)な感じのポエムを歌い上げないと音楽とつきあっている気がしない、とか、好き嫌いのフィルタを噛ませないと音楽の話ができない、とかいう症状がしばらくすると何度でも発症したりするのが、依存症の悲しい性と申しましょうか、煩悩具足の南無阿弥陀仏なのでございましょう。

[……と、お経の文言のような作文をして、救われぬ魂の鎮まらんことを願うものなり。

住居の真ん中、間取り的にはリビングと形容されている部屋からモノを一切なくしてしまって、仕事の資料や諸々はそこより奥の部屋にまとめて、玄関からここまでの部屋・空間に、寝起き・生活の諸々をまとめてみた。

仕事をするときには、家のなかで、手前から奥へ「出勤」する感じになりまして、これはなかなか具合がいい。

まんなかに何もなくぼーっとできる空間を挟んでおくと、仕事に「ポエム」とか好悪諸々の私情とかが無自覚に混入するのを防止する効能がありそうな気がしてくる。気のせいかもしれないが……。]