音楽評論家の「介護」の目安(私案)

今や世の中はケアの時代。音楽産業も、自分たちのエリアに入ってきた者は、ミュージシャンであろうが聴衆であろうがメディア関係者であろうが、常に臨戦態勢・120パーセントの万全の介護体制でお迎えします、くらいの勢いじゃなければ生き残ることができない……のかもしれないですが、

ケアや介護は自分の所有物(ペット等を含む)に一方的に「やる」ことではなく、人間同士のおつきあいですから、相手の意向をキャッチすることが結構大切なはず。

音楽評論家のケアが、老人や子どもへのそれに比べて、ラクチンなのか面倒なのか、そこのところはよくわかりませんが、とりあえず、謎の生き物であるとお考えの向きもあるらしいので、新しい年度になったところで、私なりに思うポイントをまとめておきたい。

  • (a) ご招待をいただくのはありがたいけれど、あくまでご厚意等で可能な範囲に留めていただき、お互い無理なく長続きする関係を保ちたい。
  • (b) コンサートの会場では、特別扱いなしに、普通の客として放置していただけるほうがありがたい。
  • (c) 自分が関わった公演の批評が出たとしても、特別な場合を除けば、見て見ぬ振りをする程度の距離感が穏当ではないだろうか。

子どもや老人も、コンサートへ来たお客様だってそうだと思うのですが、24時間体制の完全介護、みたいなことになるのは例外で、普通は、必要なとき以外はほっといてほしいものだと思うし、おそらく、音楽評論家という謎の生き物だってそうだと思うわけです。

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ひとつずつ、コメントします。

まず、(a)について。

是非聴いておきたいけれども、その公演について何らかの文章を書くわけではないので取材という形を取るのは難しい、というケースはしばしばあります。チケットを買って行けば良いし、大富豪であれば行きたいものに全部行けるでしょうし、「評論家は本来そうした金持ちがやる仕事だ」という理想論、というか、ご意見を耳にすることもありますが、現実がそのようになっているかというと、なかなか難しい。ご厚意でご招待いただけるのであれば、ありがたくお受けすることにならざるを得ないことはしばしばある。

でも、だからといって、評論家を招待しないとは何事だ、みたいな言い方をするのは筋が違うし、「おねだり」などは、もちろんしない。

で、これは別に「欲しいものをやせ我慢している」という話ではない。

世間には、評論家を胡散臭いと思う空気が間違いなくあって、いまだに「お金を払わないと良く書いてもらえないんじゃないか」と思っていらっしゃる人が(そのような誤解はほとんどなくなったとはいえ)今も皆無ではないですから、「やっぱりあの人たちは便宜供与を要求・強要するんだ」と思われてしまいかねないことは、厳格すぎるくらいに慎まなければならないよな、ということです。

この件は、私個人の意見というだけでなく、関西では音楽評論家の親睦団体、音楽クリティッククラブというのがあって、ここでもしばしば話題になります。

少なくとも今は、何かを「おねだり」する評論家など私の知る限りいませんし、もし、評論家から何かを要求された、という人がいたら、それはモグリ。そんな奴の言うことを聞く必要はないと思います。

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(b)も(a)と関連します。

結局、主催者や音楽家から何らかの便宜供与を受けて批評がそれに左右されることになると、当座はどうにかそれで切り抜けられるかもしれないけれど、長い目で見れば、贈収賄みたいなもので、その批評を書いた当人(便宜を受けた側)だけでなく、便宜をはかった側も一緒に信用を失ってしまうわけですよね。

そしてコンサートの会場というのは、通常、音楽を聴く以外にはやることのないような構造になっていますから、周りで誰がどういうことをやっているのかすぐにわかる。それが便宜供与でなかったとしても、何らかの特別扱いをしていると、当事者は善意でそうしていたとしても、まわりから見たら「ああやっぱり」ということになりかねない。

(いまだに「音楽評論家って裏で良い思いをしてるんでしょ」と言われてしまうケースがなくならないのは、どこかで、ヒョーロンカが悪目立ちする場面を見かけた、みたいな話に大きく尾ひれが付いて広がっているんじゃないでしょうか。噂話としては面白いですしね。)

事実として、まともな評論家だったら、オマジナイは効かないし、変な空気をただよわせながら人が近づいてきたら、人付き合いの常識として、むしろ、警戒されるだけだと思う。

普通にしとくのが一番だと、私は思います。

[最近も、自分では聴くだけのつもりで行った演奏会のロビーで、スタッフさんが「評論の○○さんは……」みたいにアタフタと大きな声で言ってるのが聞こえて、あれまあ、そっとしとけばいいのに、と思ったことでした。○○さん、ちゃんと対応できたのだろうか……。

要するに、せっかくのコンサートの良い雰囲気に水を差すようなことは、お互いにせんどきましょう、と、むしろこっちから言いたいくらいなのだ、ということです。

ひょっとすると、なかには誘惑に弱い(ように見える)評論家がいるかもしれないけれど、その人を狙い撃ちする、みたいなことをしたら、その人が可哀想だし、そんなことしているのがわかったら自分の値打ちを下げてしまうから、結局、何もいいことなんてないと思うんですよ。]

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(c)は、批評って何なのか、そもそも論のような話です。

コンサートは、無人の空間でやっても寂しすぎるわけで、音楽がお客さん(人間)に届いてはじめて目的を達するわけじゃないですか。で、「私はこういうものを聴いた、そしてこんなことを思った」と文章を残しておくのは、確かにコンサートという催しがあったことの証言みたいなものだと思います。音楽家は、自分で自分の演奏を聴くことができない。音楽はそういう性質をもっていますから、いくら私はこのときこの場でこういう演奏をした、と言い張っても、誰かがそれを「聴いた」と言わないと、それは事実にならない。

裁判でも何でも、第三者の承認・保証がないと物事が認定されないのと同じ構造になっていて、好むと好まざるとにかかわらず、わたくしたちは、そのようなルールというか作法で現実や事実を認定していく世界に生きているということだと思います。

(人間同士で認め合う以外に「現実」や「事実」を保証できない、というのは、何やら不安定なことではありますが、今は、神や絶対者を無条件に承認するのとは違うシステムで世の中が動いているのですから、そうするしかないのだと思う。批評はきわめて「近代的」な営みだと思いますが、そのベースはこういうところにあるんじゃないでしょうか。)

ただし、純粋に事実認定、コンサートが確かにあったことの保証だけだったら、お客さんの任意の誰かがやったっていいわけですから、批評を書いてそれが売り物になるためには、コンサートを聴いた人たちの間での談義を活性化させるような話題が含まれていたり、聴いていない人に上手にその雰囲気を伝えたり、こんな聴き方もあったのか、と刺激を与えたり、何か付加価値が必要で、そこはもちろん必死に毎回知恵を絞りますけれど、基本はそういうことだと思います。

だからここでも、原理的に、主催者や音楽家は、批評に介入しないほうがいいんだと思うのです。

(極端な話、やってもいない演奏会の批評を主催者や音楽家が何らかの力を行使して発表させることに成功してしまうと、それは捏造・完全犯罪になってしまう。査読や検証実験に論文の投稿者自身が介入する、みたいなことになってしまうわけです。音楽家や音楽団体は、批評の引用をプロフィールに添えて自己アピールすることがあるようですが、そういう引用が「能力証明」として信用されるのも、その文章が第三者の立場で書かれていればこそでしょう。)

音楽家や主催者は、やることをやったら、あとは、堂々と構えてりゃいいんですよ。

この評論家は調子のいいことばっかり書くけど信用ならん、とか、そういうのは、音楽家や主催者のテリトリーの外の話、作文を掲載する媒体とか、読者とかがおおむね適性に判断してくれるはずです。

音楽家や主催者が、批評の内容とか、そういうところまでケア・介入しようとすると、たぶん、評論家との関係だけじゃなく、媒体や公衆との関係まで歪ませてしまうから、よほどのことがないかぎり、やらんほうがええと思います。

(もちろん、法律やルールがあるわけじゃないので、誰もそれを止める者はいませんけどね。でも、そんなんが横行することになると、大局的にみた場合、「この社会は民度が低い」とか、そういう話になってしまうと思うんですよね。それは、嫌じゃないですか。)

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……と、あまり独創的ではない当たり前なことをダラダラ綴りましたが、ケアとかそういう話は、結局、今わたしたちが生きている世の中に、常識や良識がうまく機能しているかどうかという話に帰着する。逆に言うと、常識や良識というものは、空気や水のように普通にそこにあるけれど、やっぱり一定のメンテナンスが必要で、ケアという枠組みで対人関係を見直すと、そのことに改めて気づかせられる。そういうことになっているようですね。万全のケア、という名目での監視強化、みたいなのは誰にとっても嬉しくない。