スター主義の行方

音楽ジャーナリズムに、かつて「今は演奏家の時代だ」という言い方があったわけだが、どうやら、それだけでやっていこうとするといつまでたっても自転車操業を抜け出せないよなあ、ということに、人は次第に気づきつつある(ような気がする)。

たとえば京響は昨年から定期演奏会は完売が続いているそうで、実は以前からそういうところがあったのだけれど、京響のコンサートというのは、つまりは、月一回、あそこへ行けばクラシックのいろいろな曲を順番に聴くことができる場所、という位置づけで、お客様と息の長いおつきあいをしているのだと思う。

オーケストラの力が安定して、「完売」という際だったデータをたたき出したからといって、そういう楽団の基本姿勢が変わったわけではない。むしろ、一過性の打ち上げ花火みたいなことはしませんよ、というスタンスが、一層はっきりしたと言うべきだと思う。

(ジャーナリズム的には、常任指揮者を誉めればいのか、オーケストラのサウンドを誉めればいいのか、東京公演へ人が押しかけたり、テレビの中継が入ったりして、どうにか京響を「イベント化」して消費したいようだが、たぶん、そういうやり方では、何が起きているのか、表面をかするだけで終わると思う。)

で、落ち着いて周りを見回すと、実はクラシックの音楽会は、むしろ、そういうものだと思う。

兵庫西宮の芸文センターは、良くも悪くも佐渡裕ありきの運営で、あれは特殊、という風に言われることが多いけれど、オペラという金のかかる興行を毎年確実に続けるためには何をどうすればいいか、場当たり的ではないやり方をしていると思うし、昨年から中ホールで日本のオペラ・シリーズをやり、今年は、下野竜也のシューマン&ブラームス・シリーズと井上道義・大阪フィルのブルックナー・シリーズが加わって、ちょうど、往年のシンフォニーホールが、朝比奈・大フィルの「軌跡」シリーズ等々を企画したのと似た感じになりつつある。

やはりここにも、ある程度の実績と信頼を得たら、次は恒例・定番の続き物を回していくぞ、という大きな流れがあるように見える。

どうしてそうなるかというと、結局、お客さんは、入れ替わり立ち替わり目先の変わる「人」に釣られて来るのではなく、ある程度、慣れてきたら、横の広がりというか、気に入った・信頼できる顔ぶれと気長につきあいたいんだと思うんですよ。次から次へと、「一回限り、これをのがせばあとはない」というイベントばっかり続くと、疲れちゃいますからね。

もちろんそれは、そうやって長くつきあえるだけの度量や引き出しや可能性を持っている人を見つけられるか、見抜くことができるか、というところにかかっているわけで、妙なのにひっかかると、適当にあしらわれて、無為に時間が過ぎちゃって、企画はふらふらしているわ、お客さんは定着しないわ、ということになり、だったら、次々目先を変え続けたほうが少なく悪い、ということになる。そうしてあとは、根性、体力勝負、新しい商品を仕入れ続けられるかどうか、息切れせずにどこまで続けられるか、ということになる……。

たぶん、お客さんって、そういうところを結構見ていると思うんだよね。インターネット上のコミュニケーションは、どちらかというと話題の瞬間最大風速を競う感じがあるから、こういう息の長い関心の持ち方とは相性が悪くて、表に現れない傾向があるかもしれないけれど。