音楽と音響

ちょうどいい機会なので、この話をします。

単純な話、メロディーがぶつぶつ切れたり、楽器の受け渡しで、前のパートがきれいに歌い収める前につんのめるように次のパートが入ってくる、というような、奏者による歌い方、合わせ方の不具合が、会場の座席の位置によって聞こえたり聞こえなくなったりすることがありますか? もし、音響学や認知心理学、もしくは音響設計上の技術的な知見によって、「そういうことが起こりうる」と論証できるのなら、是非とも教えていただきたい。

あるいは、C-durの主三和音を曲の結末にふさわしい晴れやかなフォルテで全員が響かせるときに、各楽器の音響特性の違いを乗り越えて、ドミソのドの音だけが極端に聞こえにくくなり、結果的に和音のバランスが崩れる、という現象が、物理的に起こりえますか?

このような現象というか印象は、演奏者がそのように演奏してしまっているにもかかわらず、何らかの事情で気がついていないか、それでいいと放置して、聞き手にもそのような症状として受け止められた、と説明すれば済むのではないでしょうか。

(楽譜の様々な音型・モチーフだけはそれなりに細かくチェックした形跡があり、音楽を部品に分解したような演奏だったと私は思う。メロディーの呼吸とか、そうした部品を組み立てたときのハーモニーをどう作るか、ということがあまり意識されていなかったのではないか。何か狙ったことがもしかすると当人にはあったのかもしれないけれど、盛大に的を外した、と言うべきだと思う。)

自然科学的・音響技術的な語彙を不必要に論評にまぎれこませるのは一種の煙幕、物事を曖昧にする害が多いと私は考えます。

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19世紀から20世紀にかけて、音響をめぐる自然科学の議論が深まり(音は「波」という量子力学や宇宙物理の根幹にもかかわる物理現象の基本を教えてくれると言っていいような気がする、縦波・横波とか色々ややこしそうではあるけれど)、また、音波・音響を取り扱う技術も楽器の開発から録音・編集・変調・音響設計など多方面に開発されました。

そしてそのような知見とノウハウは、いまでは随分カジュアルに広まっていて、音盤を部屋で楽しむんだったらこういう機械をそろえて、こういうことに気をつけよう。ライブ演奏を音楽堂でやるときには、こういうことを工夫するだけで見違えるように印象が変わるし、ホールごとに、ここの座席はどうで、あそこの座席はどうだ等々、無数のノウハウが「通の情報」として語られているようです。

でも、同時に、そのような音響は、「ヒト」が受け止めないと音楽にならないことを忘れてはいけない。

この件について、私はあまり正確な情報をもってはいませんが、最近では認知心理学と呼ばれることが多い分野で議論されている事柄を脇から眺めていると、人間は多少の物理的な違いをいわば吸収して、それほどの支障がないように「慣れてしまう」と考えていいような印象を受けます。

あまりおおざっぱに一般化すると危険ではあるでしょう。

でも、音楽を聴き慣れるというのは、人体を、研ぎ澄まされた「音響センサー」へと鍛え上げて、通常では判別できない微かな物理的相違を感知することとイコールではないはずです。

たしかに、音響的観点から個々のパフォーマンスについて言いうることもあります。最近では(録音だけでなくライブでも)演奏する側が音の音響特性を意識して操作する傾向は顕著ですから、そういうところを検出できないと、当人たちが何をやろうとしているのか、つかむことができなくなる場合があります。

しかし、パフォーマンスにおいて音響特性に還元できない何かが問題になるケースは今も少なくないし、クラシック音楽は、歴史的・文化的な経緯から、演奏を音の音響特性に還元することを拒むようなところもある。

そしてそうはいっても、「精神性」とか、そんな雲をつかむような話がしたいわけではないんですよ。

(あと、これは武士の情けというか、論点が増えすぎてぐちゃぐちゃになるのを避けるためにあえて言及しませんでしたが、あのプレトーク&幕間トークは何なのか、ということについては、相当いろいろな意見が各方面から出てしかるべきだと思います。そういうのこそ「集合知」で議論百出する格好のネタだろうと思いますから、これは、そういうのがお好きな方々でやってください。

演奏からコンサートの段取りまで、仕掛けが多すぎる。こういうのを「盛りすぎ」と言うのではないだろうか。)