栗山昌良について、「赤毛ものはイマイチだが、和物は素晴らしい」と但し書きつきで誉めるのが社交。彼が日本を題材とする作品で一面に桜を広げた舞台に対して、その可能性と限界を言葉にしようとするのが批評。
本人が死んでから、「今だから言うけれどあれは……」と言うのはいくらでもできる。
本人が生きている間に、真正面から言わなきゃいけない。
なぜか?
ひょっとすると、その言葉がさらに本人を動かすかもしれない。そして、もっと凄いことが起きるかもしれないからです。それが「生きている」ということです。
社交を優先して批評を遠慮するのは、クリエイターを生殺しすることになる。
老人がクリエイターであってはいけないのか。もう生殺しでいいのか?
社交と批評を区別しない人は世にいくらでもいるが、少なくとも私は、そういう区別があるのだと躾けられて育った。