退散の作法

中国化する日本 増補版 日中「文明の衝突」一千年史 (文春文庫)

中国化する日本 増補版 日中「文明の衝突」一千年史 (文春文庫)

文庫版のための序文とあとがきは書き下ろしではなく、単行本刊行後の既発表エッセイの採録で代用されており、最後に著者と宇野常寛の対談(これも既発表のものをベースにした増補)がある。

対談のなかで、「中国化」vs「再江戸時代化」は、どっちへ転んでもハッピーエンドにはならず、ジレンマに陥るよう、意図的に仕組まれていることが著者の口から語られている。(「ハーバード白熱教室」のやり口ですな。)

結局、2011年秋のタイミングでこういう図式を出せば確実に当たる、というヒット狙い。論壇なるものをクラッキングするパフォーマンスだったことを自ら供述しているようなものだと思う。

そのあとで、「愛知にいて、学生が地元志向に何ら疑いを差し挟まない姿を見ていると義憤に駆られる、「江戸時代」的なものを断じて許せないと思う」という趣旨が語られているのだが、

この下級武士を鼓舞して倒幕を仕掛けるアジテーターにも似た言動は、学生や「地方」へコミットして、その声を代弁しているというよりも、そんな学生たちを見ながら、「俺はこんな風にはなりたくない、このままでは終わらないぞ」と野心を燃やす自分語りだと思う。

あぶなっかしい民主党政権の3年間が終わって、もう「この手」は使えないと思っているようなので、事実上の撤退宣言か。

ご苦労様でした。

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亡命ユダヤ人の映画音楽―20世紀ドイツ音楽からハリウッド、東ドイツへの軌跡

亡命ユダヤ人の映画音楽―20世紀ドイツ音楽からハリウッド、東ドイツへの軌跡

岡田暁生は、京響時代に井上道義に接近して、「死の都」コンサート形式日本初演のときにはえらく気合いが入っており、その後もコルンゴルトを折に触れてプッシュしていたわけだが、

その後、片山杜秀に乗っかり、大澤壽人リバイバルにも一枚噛んだ。

で、このたび出た上の本には、パウル・ベッカー(これも岡田暁生のお気に入り)がコルンゴルトを評した文章が引用されているのだが(23頁)、

不完全なもの、不自然なもの、借用したもの、マネたものはここには一切ない。そうではなくこのすべての作品は独自の眼差しで世界を直視しているのだ。その眼差しは、子どもらしい新鮮な傾向でありながら、徹頭徹尾、オリジナルな特徴をもっている。

岡田暁生が大澤壽人を誉めるときの論法は、これとほぼ同じなんだよね。

何より驚くべきは、そのあっけにとられるような洗練洒脱、そして楽器の扱いや作曲テクニックの曲芸的な完璧さだ。[……]しかも「おフランス」的スノビズム -- フランス人そっくりの発音でフランス人そっくりのジョークを飛ばし悦に入る類の -- はそこには微塵もない。何ら臆することなく、あるいは権威主義的になることもなく、楽々と戯れるようにしてモダン・フランス音楽のイディオムを操るところが、大澤のすごさである。(『日仏交感の近代』444-445頁)

何ら臆することなく、パウル・ベッカーのイディオムを操るところが、岡田暁生のすごさであった、ということになるであろうか。

西洋音楽史 (河出文庫)

西洋音楽史 (河出文庫)

オーケストラの音楽史: 大作曲家が追い求めた理想の音楽

オーケストラの音楽史: 大作曲家が追い求めた理想の音楽

パウル・ベッカーの本が、ひとつは岡田暁生の解説つきで再刊、もうひとつの新訳は彼が帯に推薦文を寄せている。

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http://www.asahi.com/articles/ASG3D5S4JG3DUCVL01R.html

あれから10年経って、批評の文体も変わっちゃったし、「死の都」について、後期ロマン派の「なれの果て」という言葉を使っているので、今はもう、投機的に何かを持ち上げる語法からは足を洗おうとしているのかもしれないけれど。