一回目はなしくずし、二回目は納得ずく

世界戦争 (現代の起点 第一次世界大戦 第1巻)

世界戦争 (現代の起点 第一次世界大戦 第1巻)

総説で、各国がドミノ倒し的に参戦していく様子を小関隆が淡々と記述していて、第一次世界大戦がなしくずしにはじまったことを改めて確認できる。

「ブルジョワとか将軍とか、いつも偉そうにしてるけど、いざというときには全然頼りにならないじゃん」

ということで、19世紀が自壊する悲喜劇とされているわけだが、考えてみれば、これを他人事でない「悲喜劇」「栄光の時代の終わり」「威信の失墜」と思えるのは、それなりに偉い人だけかもしれない。

西欧でも、都市の壁を壊して、労働力を大量に招き入れたり、ゲットーに囲われていたユダヤ人を外に解放しつつ同化したり、まがりなりにも普通選挙や労働者との団体交渉をせねばならなさそうだということになりはじめたり、そういう変化が起きてから、まだ、それほど間がない時期なのだから、のちに「大衆」と呼ばれることになる人たちにとっては、「戦争って、俺たちにも関係あるの、お歴々が勝手にやって、勝手に決着つけるんじゃなかったの?」「え、事件は会議室で起きてるんでしょ」みたいな感じだったのではないかという気がする。

何が未曾有かというと、そういうことなのでしょう。

関係ない、大したことないと思っていたことにズブズブと巻き込まれていくわけだから、かなり心臓に悪い、精神に堪えそうな戦争ですね。(日本だって気がついたらシベリアまで出兵して、撤退できずに酷い目にあったわけで……。)

だからといって、徹底的な情宣と動員で、あらかじめがっちり体制固めをしてから、衆人環視・納得づくの第二次世界大戦のほうがいいかというと、どっちも嫌だけど。

で、愛国心とかナショナリズムとか言うけれど、見かけ・体裁はともかく、実態・実数として「国民」の「総意」とか「大多数」というのは、どういうやり方をしてもやっぱり無理がある、というのが20世紀の経験だったのではないかしら。権力だかヘゲモニーだかを握った数パーセントの同意を取り付けてどうにかする形に結局はなるんだと思う。

(そして、リアルに「総意」を取り付けられるところまで「国」を少数精鋭化すると、今度は、そんな小規模では「国」としてまともに存続できなくなってしまう。(本人たちが「国」だ、と言い張っても、小さすぎると周りから相手にしてもらえない。ホブズボウムが、19世紀のナショナリズムには、暗黙にそのような、いわば「規模による足切り」があったことを指摘している。)「近代」の何が「未完」かというと、安定稼働できる規模を有し、なおかつ完全に意思統一された集団なんぞというものは不可能だ、というところが「未完」なんじゃないかしら。どこも、そんな感じでだましだましやってるんじゃないの。)