証明と古典音楽

お互いに技を掛け合うように、新しい計算を開発して問題を出し合うことが数学の主流だった時代に、なぜそうなるのか証明して論を立てる方向へ舵を切ったのは、おおよそ、オイラー(1707-1783)のあたりからだと考えるといいみたい。

オイラーの無限解析

オイラーの無限解析

20年くらいあとにカントが生まれて、さらに少し後にハイドンとモーツァルトのウィーン古典派の時代になる。啓蒙とかギャラントとか、そんな時代。

たぶんそれは偶然ではないのだろうという気がする。

いや、どうしてそこにこだわるかというと、私自身は、エレガントに証明するのは楽しそうだけれど、計算の技をかけあうだけだと、そのうち(というかすぐに)飽きちゃいそうなのです。

でも、世の中を見ていると、証明とかどうでもいいから、どんどん技をかけてくれ、すごい技で悶絶させてくれ、みたいな欲求のほうが強くて人気がありそうな感じがするんですよね。

何なんですかね。

自然体で白紙の状態から対話しよう、という路線は、おそらく、果てしない技のかけあいに人が飽きたところから始まる。

そしてバッハは、めちゃくちゃ膨大な量の「計算」をしているけれど、ぎりぎりオイラー以前の人という気がする。

「関数」という発想もなさそうだし……。

今更、「中国」と「江戸」を対決させても、こういう感じの「近代」は出てこないと思うのだけれど……。

昭和の子供だ君たちも

昭和の子供だ君たちも

「共通一次=新人類世代から日本人はバカになった」というのは、もうほとんど老人の繰り言に近くなりつつあるモノの言い方だと思うけれど、でも、そうなのかもしらんぞ。