それはメロドラマの型です

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そして男の妄想が作りあげた理想の女性が受肉して目の前に現れる、というのは、ピグマリオン神話の変形にもなっている。

ルソーとバーナード・ショウ。

第一波はロココ趣味が爛熟退廃した18世紀末で、ルソーがメロドラマ「ピグマリオン」を発表して、これがドイツに伝わり、ベンダが同種のドラマを手がけた。プチ・ブームになったメロドラマには、モーツァルト(元祖「神童」)も関心を持ったことが知られている。[まだこの時点では、メロドラマ/メロドラムの語に「お涙ちょうだい」の意味はなく、メロディー+ドラマ=音楽付き朗読劇という趣向を指すに過ぎなかったようだが。]

第二波のバーナード・ショウ「ピグマリオン」が英国中産階級批判なのは有名だし、コルンゴルト(父)は、このあたりの自分の世代がどっぷり浸かっていた文化風土のなかから息子のオペラのためのリブレットのネタを拾ってきた、ということなんだと思う。

そしてミュージカル「マイ・フェア・レディ」のブロードウェイ初演は1956年で、映画「めまい」はその2年後。

この種の「病んだ男の妄想」は、周期的に受ける時期が来る。だから、アートというより(ちょっと病的な)社会現象だと言うのです。クールな謎解き・解釈の対象という感じではない。

そして先般の「死の都」は、「病んだ男の妄想」が同性の共感を誘う以上に、それを眺めてスノッブな女性がうっとりする構図になっているところが、濃厚なハルキの香りと診断してよさそうに思える。

(しかも舞台上の黙役のマリー(同性の観客が感情移入できると当て込まれているのであろう存在)は、「病んだ男」を決して突き放すことがない。小谷野敦がハルキのトラウマなのだろうとする「直子」的存在に見えちゃいますです。いっそ新国で次に「死の都」をやるときは、設定を『ノルウェイの森』に読み替えて、マリーの死は自殺だったことにしてはどうか。

……とここまで書いて、あの演出がフィンランドの劇場から借りた「北欧ブランド」だったことに気がついた。「色彩のないなんとか」のラストともカブっているわけか。薄気味悪い話というか、ハルキと新国のマーケット・リサーチが意図的なのか偶然なのか同じ方向を向いて、同じ客層を射貫いてしまったということなのでしょう。嫌な世の中になっちゃったわね。心に傷を負った人が釣れ放題だわ。)

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