何が人を洋楽へ駆り立てるのか?

だから、その先の話がしたいわけよ。

レコード・録音文化のなかで、「くらっしっく音楽」の演奏家それぞれの違いがどうのこうの、という談義は中心的というより周縁的な現象なんじゃないか、という疑問はひとまず脇におくとして、

人を呼んでコンサートを開くのが(出演者の手配・観客動員の両面で)難しいときにレコードがその代用になり得るというけれど、それじゃあ、どうしてそうまでした音楽(ほぼ洋楽)を欲するのか。そのような人が、なぜ、いわゆる「地方」に一定数発生したのか?

天然自然にそのような欲動が生まれたわけじゃないでしょう。

とりあえず「レコード以前の洋楽半世紀」に遡れば、国民皆教育のスローガンで、東京の音楽学校で唱歌やオルガンを学んだ教師がそれぞれの地域の拠点都市へ派遣された事実がある。

あるいは、明治になって禁制ではなくなったキリスト教の宣教師が全国をかなり細かく巡回したり、様々な土地に住んだ、というようなこともたぶん大きいはず。

金沢とか広島とか熊本とかだったら、きっとそういう下地があっただろうと思うのに、「地方の音楽文化」というときに、どうして、そのあたりからの流れをはっきり言おうとしないのか、というのが一点。

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そしてさらに考えを進めると、それじゃあ、そのような明治の「洋楽を広め隊」な人たちを現地で迎え入れたのは誰なのか?

明治以前からの地域の有力者や文化拠点(お寺とか)が活用されたり、必ず色々あるはずでしょう。

西洋音楽は、共産党の第二次世界大戦後の山村工作隊みたいに、各地に既に存在していた人間集団・人間関係を無視して、山の中に勝手に陣地を築くようなアホなことはやってないはずです。

「コンサートが開けないから、かわりにレコードで心を慰める」などというのは、言っちゃあ悪いが、そうやって19世紀半ば頃から積み上げられてきた洋楽の導入というか浸透の歴史の、まだ浅い上澄みみたいなもんだと言われたってしゃあないんとちゃうんかい。

そしてそのように言われないための反論として、何があるんじゃ、と私は尋ねているわけです。

(たとえば、金澤某がああいう生活ができる基盤は何なのか、どういう家の人なのか。その話は、そちらのご城下の明治以前からの文化史のなかに、さほど無理なく位置づけられるんじゃないかと私は思っているんだけれど、違うの?)

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そしてそういうことがはっきりしてくれば、

そちらのご城下の事情・歴史・目下の焦点は何か、ということを、夢うつつでなく他人に説明できるだけでなく、

なるほどこれは、豊臣が滅びたあと幕府直轄地になった都市のお城の裏手の、明治政府に摂取された旧軍用地の公園に隣接するあたりを、その後、民間の力を導入して文化とビジネスの拠点として再開発する取り組み(ただし、そのような「民間力」を前面に打ち出している現在もなお、交通アクセスとしては旧国鉄がメインルートだったりとか、ちょっと独特な特性があって云々かんぬん)とは、話が通じるところもあるけれども、全然違うところもあるなあ、みたいに、他と話題をすりあわせる出発点になるわけじゃないですか。

「ふわっとした民意」みたいな感じに、中央と地方とか言っちゃって、なんとなくオトモダチ、とか、いい歳して、言いたいのはそれだけかい、と思うのよ。