リズムの足し算と割り算

西洋の高級な音楽はハーモニー、響きを作ることを重視する(リズムを独立要素にせず、響きの様態の変化でリズムを生み出す=リズムをハーモニーに従属させる)という傾向があり、しかもウィーン古典派以後の器楽は、舞踊のリズムから来た発想と、詩・文芸の韻律(ReimとMetrum)から来た発想が混ざっているので解析がやっかいですが(そしてラフォール・トリオは、シューベルト学者たちが泣いて喜びそうなくらい綿密に歴史的な裏付けの取れる演奏を展開していたのでびっくりでしたが)、

「フェスタ」に出てくるような音楽だと、もっとシンプル・露骨にリズム、ノリがはっきりしているし、重要な聞き所になりますよね。

ずっと通して聴いていると、音楽人類学的、ワールド・ミュージック的に、地球上にどんな種類のリズムがあるのか景色の一端が見えるような気がしてくる。

少なくとも、アフリカ系とかヒスパニック系の大きなループ(小節くらいのやや長めの単位)を2分割4分割するリズムと3分割するリズムをいろいろなやり方で重ねるタイプの音楽、いってみれば「割り算」っぽいリズム(ボディーパーカッションで2と3の割り算を実演する啓蒙的なグループも出演していましたよね)と、

東欧やロシアのビシビシ決めるリズム(アルカディアQはこの文化圏のど真ん中で育ったから西村朗をラクチンに弾けちゃうわけか?)は随分違う。

こっちのほうは、ループを「割る」というより、ブンチャンブンチャンの2とか、ブンチャッチャの3とかのユニットを数珠つなぎにしているような感じがあって、いわば「足し算」っぽいですね。(そしてアルカディアQは、ベートーヴェンでも何でも、そろばんの人力計算みたいに前から順番にひたすら足し算を続ければ、いつか必ず最後にたどり着く、という感じに弾いていたと思う。)

ブンチャンが延々続く2+2+2+2+……は、ショスタコーヴィチがピアノ三重奏で使ったようなユダヤのクレズマー音楽のベースでもあるし、高速早回しにするとチャルダーシュになって、足腰の強いコサックダンスなんていうのもある。で、2と3を適宜混ぜると、2+2+3のブルガリアやトルコあたりにありそうなリズムが出来上がるし、「足し算」主体の中央ヨーロッパの真ん中のボヘミアには、どういうわけか、2分割と3分割が交錯するフリアントがある。(ワルツにもこういう2分割と3分割のポリリズムがあるのは、クーラントやメヌエットなどフランスから来たバロック宮廷舞踊の影響なのでしょうか。)

で、ラグタイムは、ベースのブンチャンのほうがマーチ起源とかポルカ起源とか言われるようですが、その上をタララ タララ タララ タララ……と速い3分割が横切る形(小さい3分割をいくつか数珠つなぎにすることで1小節orそれ以上の大きな単位が不規則に分割される)になっていて、このあたりで、「足し算」と「割り算」を組み合わせる20世紀ポピュラー音楽が発生したと見ればよくて、だから、ロシアから来たユダヤ人移民の子どもガーシュウィンは、最強につぶしが効いたのかなあ、などと思ったりしました。(逆にピアソラは、上半身だけ見るとヨーロピアンな衣装を着ているけれど、足取りはタンゴだから、厳しい親方が見習いの板前さんを躾けるみたいに、テーブルの下で1小節に3回キツい蹴りが入る。)

そしてそんなことを考えていると、「エ〜ンヤトット」の上にサンバっぽい音色(楽器)をかぶせる、とか、それだけのことでクロスオーバーするのか、そんな安易な、とか思っちゃうんですよねえ……。

まあ、いいんですけど。

(こういったワールド・ミュージック系のワビサビの話は、フェニックスホールのほうが昔から強い。美麗芳醇な響き(いわば音楽の上半身)に気を取られていると、「足腰」がおろそかになりがちだと自戒したい。

目下絶好調な広上淳一の音楽は、天空に錦絵の如き艶やかな音の模様をゆらめかせるのが得意だけれど、実は足取りが重かったりするところがあって、それがモーツァルトなどでは弱点になる気がするし、一方、このあいだ久々に聴いた金聖響は、彼なりに舞踊の軽やかな足取りみたいなことを意識できる指揮者だったなあ、とか、そんなことが言えたりもするように思う。クラシック音楽への偏愛が頭でっかちになると、足下をすくわれそうになるんだよね。身軽な編成の室内楽は、そういうことをも思い出させてくれる。あと、古楽には、後代に失われた古いタイプのリズム概念を蘇らせる指向性が含まれているはずで、チェンバロ演奏では長らくそこが大問題だったように思うのだけれど、例えばシュタイアーは、リズムに関しては割合凡庸な現代っ子で、音楽の段取りを「頭で組み立てる」傾向が強く、そこも不満なんだよね。みんなサウンドや時々繰り出す仕掛けで評価してるみたいだけど。)