外声の3度

[もしあなたが、不安や不信が先に立つ過剰にネガティヴな心理状態に苛まれているのでなければ、ごく普通に受け止めうるはずの意見なので、あなたの心の有り様を映す鏡としてご利用ください。]

ブランデンブルクの5番は、単にD-durというだけでなく、第一ヴァイオリンとバスがほとんどの箇所で3度の関係で動いている。おそらく、ドイツの音楽家がイタリア様式を強く意識した書法なのでしょう。

(とりわけ2から3段目で、外声が3度の間隔を保ちながらディアトニックの音階で動くのは、イタリアのベルカントを弦楽合奏に移し替えたように見える。)

こういうテクスチュアの特徴に耳が敏感になっているのは、1週間朝から晩まで室内楽を浴びるように聞き続けた鍛錬の賜物なのかもしれない(笑)。

もし低音をルーティーン化された通奏低音の作法でブンブン突き刺すように弾くのではなく、他の声部との共鳴に配慮していれば、この曲はきっと特別に輝かしい響きがしたことであろう。トリオ・ソナタの編成による第二楽章は、ヴァイオリンの方が心得た弾き方をしていらっしゃったので、かなり良い響きだったと思うし、もちろん、いろいろな考え方があっていいわけだけれど。

(アクセントを効かせるときに、強烈なプレッシャーで音の立ち上がりをつぶしてピッチをわからなくなくしてしまうのは、バロックや古典の楽器・奏法とモダンのそれとの違いを過剰に強調する、少し前の、若干の誤解を伴う過渡期のピリオド・アプローチじゃないかと思う……。)

2日前のシンフォニーホールにおける大植英次みたいに演奏前に楽譜を取り出して見せて、緩徐楽章では、昔ヴィンシャーマンが同じホールで同じ曲をやったときみたいに傍らの椅子に座ってみせたのは、ほほえましいファイティングスピリットということでスルーしたい。

瀟洒なホールで古典音楽をやるときは、野心満々であるよりも、優雅に聡明な振る舞いをコーディネートするのがいいんじゃないかな。

(ところで、ハイドンやモーツァルトの舞踊が様式化して形骸化しかかっていた時期のメヌエット楽章の拍をどのように考えるかというのは、曲ごとにいろいろなファクターが絡み合うから難しいね。1小節ひとつ振り等々の決め打ちだと、かゆいところまで手が届かなくなってしまうのではないだろうか。ハイドンは次のベートーヴェンを予見させる感じにしばしば野放図だけれど、17歳のモーツァルトは、1拍1和音の和声リズムでフレーズの最後を決める「メヌエットのカデンツ」(ファ[IVの和音で旋律は拍を割って飾りがつく] ソ[46の和音] ソ[Vの和音] | ド ソ ド|)を踏襲しているし……。)