分身の術は外の世界では通じない

ある人物に資格・称号・肩書き・評価を付与するには、3つの手順がある。

  • (a) 自称・自己申告:当該の人物が何らかの資格・称号・肩書き・評価を自ら主張すること
  • (b) 反応・応答:(a)の自称・自己申告を、相手に向かって「その通り」と承認すること。もしくは、そうした自称・自己申告に先立って、当該の人物に向かって、あなたは○○だ、と主張すること
  • (c) 第三者の証言:(a)の自称・自己申告を間接的に受け取った者が、たしかにその人物は○○だ、と承認すること。もしくは、そうした自称・自己申告に先立つか、そうした自称・自己申告とは独立して、その人物は○○だ、と主張すること

国家の独立であれ、個人の資格(博士号とか)であれ、コンサートの評判であれ、通常、上の3つは、3つとも揃っていないと成り立たない。

「モーツァルトのスペシャリスト」を自称して(そのように広告を打って)(a)、その演奏を聴いた聴衆が喝采して(b)、批評か何かで、「彼の弾くモーツァルトはすばらしかった」と書かれる(c)。そこまで一巡してようやく話は完結する。

そこまではいい。

問題は、(a)と(b)と(c)が相互に独立していないと、こういう社会的な名声のシステムが腐敗するということだ。

興行において広告屋が信用されないことがあるのは、主催者の広報を請け負い(a)、巧みに聴衆を誘導して(b)、批評家の人選や掲載媒体をコントロールする(c)と思われているからですよね。いわゆる「メディア支配」説。

マスな媒体に乗らない場合であっても、事情は変わらない。

主催者(a)が、「あなたは素晴らしい」とことあるごとに持ち上げて(b)、さらには、「××さんもいいっていってましたよ」と口コミの伝言ゲームに参加したり、△△さんや□□さんに「あの人いいですよね、ね、ね」と話しかける(c)、ということになったら、規模が違うだけで「メディア支配」と構造は同じままだ。

それは、(a)を請け負う人物(a1)が、同時に(b)を装う(a2)であり、さらには、(c)を拡散する(a3)を兼ねていて、同一人物が3つの分身を使い分けていることになる。

誰がやってもいい(かもしれない)ことであっても、だったら全部を一人でやる、というわけにはいかないことが世の中にはある。