ムーティのイタリア語

フリットリが降板しちゃったので、「指揮者のオペラ」を堂々とやり抜く現在世界でただ一人の生き残り、なのかもしれないリッカルド・ムーティが劇場を支配する様を目撃するのが先の「シモン・ボッカネグラ」の最大の見所だったように思いますし、

後期ヴェルディっぽい海の描写だけでなく、伝統的なイタリア・オペラのブンチャンの伴奏が常に表情豊かに、ドラマチックに色づけされているのは、「指揮者のオペラ」の醍醐味。生前のクライバーは、ムーティが(ちょうと子どもの頃の記憶の中のパパ、エーリッヒのように)劇場に君臨できているのが羨ましかったんでしょうね。(こういう志を今も持ち続けているのは、今では俺とお前だけだ、あとはカラヤン……、と思っていたに違いない。)

でも、今回それと同時に、概して小粒と評された歌手たちのイタリア語(のキーワード)がとても明快に耳に入ることに驚いた。

この感じは、イタリアの劇場だから、とか、ある時代の歌唱法、とかいうことではないような気がする。チョン・ミョンフンが振るフェニーチェや、デュダメルが振るスカラは、こんな風ではなかったもん。

そして、言葉がくっきりしていることは、ムーティが作ろうとする「指揮者のオペラ」の要の特徴になっているようで、彼がはっと息を飲むように間を取って、「これは驚きのどんでん返し!」みたいに、たったひとつの和音で舞台にリアクションするのは、世評でムーティの特徴とされる「楽譜への忠誠」、ヴェルディの書いた通りを音にする、というのでは説明のつかない、台詞の言葉へのダイレクトな反応だったと思う。

「ヴェルディの楽譜に立ち戻ろう」は、おそらくムーティのような立場の指揮者にとって、劇場のいろいろな約束事を排除するための政治的なスローガンのようなところがあって、そんな風に余分なものを取り去った先で彼がやろうとしたのは、音(歌・オーケストラ)が言葉とダイレクトにぶつかりあう、ほとんど古代的な音楽劇のような気がしました。それは現代人の見る夢・幻想に過ぎず(だって彼が作るオケの響きは徹頭徹尾モダンで時代考証された「古代」や「近世」じゃないのだし)、そんなものを追い求めるのは不合理で時代錯誤かもしれないにしても、そこが彼の追い求めるオペラの核心なのでしょう。

(あまりに言葉がくっきりはっきり造形され過ぎるので、ちょうど往年のフィッシャー=ディスカウのドイツ語に似た臭みがあるようにも思ったけれど。……こういうところは、ムーティが、マイクに狙った通りの音を届けようとするアナログレコード時代の音楽家の最後のひとりなのかもしれない、という風に思えて、ムーティの音楽は、ある世代にとって二重三重に「懐かしい」種類のものだと言えそうに思う。)

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で、そういうものを日本に持ってこようとすると、エコロジカルなお野菜が一等地のセレブなスーパーでしか手に入らない高級食材になっちゃたりするのに似た現象が起きまして、イタリア語なんてほとんど誰の耳にも入ってないから、「さすがイタリアのオーケストラはよー歌うなあ」というところで大満足して、皆さん家路につくことになるわけですが……。(別に批判じゃないよ。そういう風にしかなりえないところを含めての「日本のオペラ」。わたしらは、もう何十年もそういう風にやってきておるわけなのだから。)