文学・美術を参照した昭和の洋楽、大衆娯楽を師と仰ぐ平成の洋楽

ソーシャル化する音楽 「聴取」から「遊び」へ

ソーシャル化する音楽 「聴取」から「遊び」へ

『ソーシャル化する音楽』の終章は、渡辺裕『聴衆の誕生』を引いて、彼が1980年代末にクラシック音楽に関して指摘した動向が、『ソーシャル化……』で論じてきた2000年代のポピュラー音楽の諸動向とほぼ同じであることから、クラシック/ポピュラーというジャンルを越えて、音楽一般をめぐる何かが起きているのだろうことを示唆して終わる。

でも、そもそもの渡辺裕がポピュラー音楽や民族音楽の動向を踏まえてクラシック音楽論を更新しようとしているはずなので、彼の指摘の数々がポピュラー音楽にあてはまるのは、むしろ当たり前かもしれない。評論のとりあえずの締めくくり方としてはこれでいいと思うけれど(ものすごく見通しがよく勉強になる本ですし)、でも、理論や仮説・観察モデルとしては、論点先取めいたところがあって、やや弱い。

文学や美術を直接的に、もしくは、批評・評論を介して間接的に参照するような音楽語りのあり方が古くさいものになって(ロマン主義とか前衛・アヴァンギャルドがその典型)、

社会的なステータスを求めたり、非営利で俗世から遊離した価値を求めるタイプの音楽の場合であっても、直接的・間接的に大衆文化や娯楽産業の動向を参照しながら語らないと、「今」を捉えている感じがしない。そういう世の中になっていることが、「渡辺裕/ソーシャル化」の一回り大きい条件なのだと思う。

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ただしそれは、志が低く、世の中が俗っぽくなったということでもないと思う。

従来、音楽語りが参照してきた文学や美術は、ロマンチシズムやリアリズムやアヴァンギャルドの時代にはそれなりにうまく大衆文化や娯楽産業とつきあっていたはずで、むしろ、ロマンチシズムやリアリズムやアヴァンギャルドは、バロックだロココだクラシックだといった貴族趣味に対する下からの突き上げだったはずなんですよね。文学や美術がこのあたりの俗世との関わり方をマネジメントしてくれているから、音楽はそのうしろにちょろちょろくっついていればよかった。

それがおそらく、文学・美術・音楽がタッグを組んで「ザ・芸術」を標榜できた時代ということだと思う。

で、文学や美術の旗色が悪くなってきたから、「ザ・芸術」グループとして共倒れする前に、音楽を大衆文化や娯楽産業へ宗旨替えして生き延びさせようというのが、音楽官僚・渡辺裕の「政策提言」だったのだと思う。(そして世の中が実際にそのように動いたというので、彼の本が今も読まれる。この流れが気に入らない保守派は、文学・美術・音楽を華麗に語る岡田暁生を読んで憂さを晴らす(笑)。)

近代の最初から音楽は大衆文化や娯楽産業と無縁ではなかったのだけれども、間に文学や美術を噛ませていたのが直接取引するようになった、ということなのではないか。

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ただしこのような見取り図は、音楽とは何か、そもそも論のような体裁であるにもかかわらず、渡辺裕の場合もソーシャル化の場合も、「主として国内の動向」としてでないとうまく語ることができない。

なぜかというと、ここで「音楽」と言われているものが、ほぼ「洋楽」のことだからだ。

「洋楽」は、口語体の開発等々を手がける文化の基幹部門と呼べそうな文学と提携したり、日本の当時の売れ筋の輸出品だった美術とくっついたりすることで国内の地盤を固めて、その路線で長くやってきたのだけれど、

近代文学も近代美術も、かつての勢いがなくなったようなので、和製ポップスを成功させたり、音盤文化を育て上げたりしてますます成長しそうな人たちに、「洋楽」がすり寄ったということです。

「クラシックもポップスも、同じ洋楽なんだから、仲良くしましょう、文学、美術? そんなものとは、きれいさっぱり縁を切りました。日本の心を忘れるなですって。いやなに、演歌だってその正体は洋楽なんですよ。みんな、元は同じところから出た朋輩っすよ。これからは一緒にぱーっと行きましょう、ぱーっと!」

みたいな感じ。

ハイ・カルチャーとそうでないもの、という偽の対立でいがみ合うよりは、はるかにましな政策・処世術だとは思うけれど、

でも、そんな風に人々が集合離散して、「音楽シーン」を着替えていくさらにその土台は何なのか。

都市で音曲が流通するには、もうひとつ底がありそうな気がするんだよね。とりあえず、「主として国内」の話として。

だって、洋楽が大衆娯楽の動向にすっかり依拠するようになったねえ、という観測で終わったら、芸術文化の公的助成は先細りだから民間から資金調達するしかない、とか、大学も運営維持費を削られて、競争的に外部から研究費をかき集めているらしいね、というゼロ年代の現状を追認しているだけみたいに見えるもの。まあ、いかにもそういう時代らしい話ではあるわけですが。