聴覚像と視覚表現:録音はなぜ絶えざる編集を欲するか?

[複数の記事をつなぎ直しました]

(1) ルネサンス:聴覚像としての音楽

1年で西洋音楽史を講述しようとすると、毎年6月の梅雨の季節がルネサンスの話になる。

聖歌隊が各地に編成されたり、世俗歌曲(今の感覚では声楽アンサンブルに見える)がたくさん出て、そのうち、印刷もされるようになる感じをわかってもらうには、こんなのもあって、あんなのもある、とたくさん並べて聴いてもらうのがいいのかもしれない、と最近ようやく気がついた。

日本に派遣されたイエズス会はその後弾圧されて、オラショみたいなのしか残らなかったけれど、メキシコには音楽家が派遣されて、アステカ語の聖歌というのもあるんですね。

コロンブス時代の音楽 -モンデハル, ペニャロサ, リバフレシャ, 他

コロンブス時代の音楽 -モンデハル, ペニャロサ, リバフレシャ, 他

  • アーティスト: ザ・ヒリヤード・アンサンブル,エスコバル,エンシーナ,ルーチャス,ウレーデ,ミリャン,アロンソ,モンデハル,ペニャロサ,リバフレシャ,アルバ
  • 出版社/メーカー: TOWER RECORDS EMI CLASSIC
  • 発売日: 2009/03/04
  • メディア: CD
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合唱というと、ルネサンスが最初の黄金時代であるようなこの動きを私はまず連想して、弦楽四重奏のような近代室内楽に先立つ、西欧音楽の「核(コア)」がここで形成されたと言えそうに思っているのだけれど、

短絡的に考えるときには、

吹奏楽の隆盛に先立つ昭和の学校や職場の合唱運動とか、ママサンコーラス的な、それこそ「同調圧力」の温床みたいなものが真っ先に思い浮かんだりするのだろうか。

遠く古代ギリシャの教説を取り入れたり、神学と組み合わせたりしながら伝えられてきた「ムシケー→ムシカ→ミュージック」という人工的な秩序の夢(「音楽」なるものは常に人工的な仮構なのであって、現代の諸言語でも「音楽」は外来語として名指されるのが通例)が、ひょっとしたら快感情と結びつくかもしれない。「音楽」は、思弁や計算によってアプローチするしかない普遍であり、現世では紙の上に図示したり、人間の喉の震えでその影をなぞることしかできない、というのでなく、この三次元空間に知覚される鳴り響きを「音楽」とみなし、その快不快を率直に語っていいと思われるようになったのがルネサンスで、そのように「音楽」を快く知覚できる最有力の方法は、その場に居合わせた人々が声を重ねることだったわけだから、コーラスは、めちゃ大事だし、その後の「音楽」の進む道を決めたと思うのだけれど。

「音楽=ムシカ」はルネサンス期に三次元空間に受肉した感じがするわけで、その瞬間の記憶を反芻することは、西欧の音楽とつきあううえでとても大事なことだと思う。

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ということを確認して、次に楽譜のことを考える。

(2) 五線譜は分割図法

ですよね。言葉とメロディーは、並列処理される2つのストリームではないし、fとかpとかのダイナミクスが、それとは別の第三の次元として存在しているわけではない。

音楽が感覚に与えられる像のようなものとして、視覚表現とのアナロジーで捉えられるようになった転機がルネサンスだとして、同じ頃から、五線譜は、そのような感覚像の模倣を目指しているかのようでありつつ、実情としての楽譜の「画面」は、どんどん意味の次元を増やして、音楽を構造化する複雑な分割図法として発展している。

音楽は、それを記述する視覚表現(楽譜)まで視野に入れて考えたときに、自然の模倣(美)と分割図法(意味)の二面性をもつ表象システムになっていると見ることができて、だから近代西欧の文化において特別な地位を獲得したのだ、と言ってしまうと、ワーグナーの神話解釈を賞賛したレヴィ=ストロースそのものになってしまうか。

でも、そういえば、五線譜上の個々の記号は、スラーとかスタカートとかアクセントとか、しばしば触覚的な痕跡っぽいかもしれない。

http://togetter.com/li/678388

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ということで、視覚表現が遠近法(模倣図法)全盛だった西欧近代の音楽は、それ自体が聴覚像(遠近法的な表象システムで把握される視覚像と類比的な)と理解される一方で、それを記述する視覚表現である五線譜が分割図法的な特徴を強固に保持している。近代の音楽とは、そのようになんとも奇妙で両義的な存在だったのではないかと考えてみた次第。

めんどくさい話ではあるが、この枠組みに照らすと、五線譜と録音の記号としての異同を整理できるかもしれない。音盤の溝や磁気テープの電気特性は、もはや人間の目が読む視覚記号ではなく、機械による解読を想定したデータではあるけれど、三次元の鳴り響きを二次元平面に投影した記号であるという観点から五線譜と録音を並べて比較するのは、あながち無益な思弁ではないかもしれない。

(3) 録音という音響の拓本に波形編集が意味を与える:音楽の20世紀

三次元空間の鳴り響きを、ある特定の地点で観測された空気振動の波形に還元して、これを二次元平面(音盤や磁気テープ)に記録するのが録音という行為・技術なのだから、これは、立体の拓本を取るのに似たものと解釈することもできるし、一点透視図法に似た模倣図法とも解釈することのできる何らかの記号作用を音楽・音響に対して行使しているのだろうと思う。

(初期の蓄音機は膜の振動をダイレクトに蝋管や円盤に刻んでいたので拓本に近く、しかもその形状は立体的だったけれど、その後の電蓄はそうした特性を継承せず、間に電気信号を挟むことでその記号(溝)をもっぱら二次元情報として活用する方向へ舵を切った。音盤の溝は、形状としては立体だが、その運用のされ方は、1920年代以後、映画フィルムの平面に記録されたサウンドトラックの波形とほとんど変わらないものになり、そのような経緯があったから、その次に、溝や二次元波形よりも電気との相性が良い媒体として、磁気の強弱を利用する器機が出てきたんじゃないかと思う。)

でも、これを再び空気振動へと湯戻しするだけだと、かつてどこかで鳴り響いた音響・音楽の「似姿」以上のものにはならなくて、なおかつ、録音を湯戻ししたオーディオ・リスニングにおける空気振動の有り様は、少なくとも現在の技術では、かつてどこかで鳴り響いた音響・音楽と同一ではあり得ないし、サラウンドとかなんとか、技術を更新すればするほど、どんどん作り物めいた感じになっていく。そしてこのような録音の作り物感は、デジタル3Dの視覚表現が、三次元の人形におけるリアリズム(「ブキミの谷」へ落ち込むようなタイプの本物ソックリ)へたどりつくことなく、技術を更新すればするほど作り物感を増していくのに似ている。たぶん、それが、現象の次数を落とすタイプの模倣的記号(三次元の音響を二次元の波形に還元する行為)の宿命なのだと思う。

一方、アナログであれデジタルであれ、録音された波形の編集が、音響を様々なパラメータに分割して様々な処理を施すのは、録音された二次元の波形を模倣とは別の痕跡と捉えて、そこに「意味」を付与する行為なのかもしれないね。視覚表現に、模倣とは別の分割図法があるように。

(4) 「音楽」という原罪

たぶんここまでの考察はそれなりに筋が通っていると思うのだけれど、この説明が「はじめにルネサンスありき」という仮説の上に成り立っていることを忘れてはいけない。

「音楽=ムシカ」をイデアの領域から人間の感覚の領域に引きずり下ろして、受肉させたところから話がはじまっているわけだ。

これを、無限・永遠・普遍ならざる有限な存在としての人間が引き受けなければならない返済不能の負債、原罪のようなものと認める世界観(あからさまにキリスト教的だ)の下でのみ、この話は成立する。

「俺はそんな借金をした覚えはない」とか、「先人の借金など、面倒だからさっさと自己破産を宣告して、別のゲームをはじめよう」とか、ということになればいいのかもしれないが、

その種の過去の歴史をチャラにするリセット、革命、パラダイムシフトの数々の試みが前衛の名の下に遂行されて、やっぱいまいちうまくいかなかった「その後の世界」として今・現在があるのだ、という感覚があって、

「音楽は鳴り響き、気持ちの良いサウンドということで、とりあえず、いいんじゃね」

というあたりに今・現在が落ち着いているようにも思われる。

ほんまにそれで大丈夫なんかいな、という疑念を、私はもうちょっと持ち続けたいと思っているのだけれど、そうかといって、ゲームのルールを複数認めて「音楽」を複数形にしよう(musics)とか、記号作用を成り立たせている関係者全員をゲームのプレイヤーとみなして、いわば、バックステージものとしての音楽を楽しもう、音楽は現在進行形の行為なのだから(musicking)とか、というのは対処療法にしかならない気がする。「音楽」という言葉にこだわる態度が未練がましいというか、奴隷の弁証法、己を歴史の下流に位置づけて疑わない態度、という感じがする。こういうことを言う人たちは、自分たちの興じるゲームが、どのようなものであったとしても、あくまで「音楽」でなきゃいけないらしいのだが、その執着が、私にはよく理解できない。

というわけで、

「音楽とは鳴り響き、気持ちの良いサウンドのことだ」

という土俵で遊びつづけようとする限り、奇っ怪な分割図法の五線譜(もしくはその代案となるかもしれない視覚表現)を書いては消し、消しては書きを繰り返したり、録音が何度も何度も編集され続けたりする「終わりなき日常」が続くことになるのだろう。

退屈論 (河出文庫)

退屈論 (河出文庫)

小谷野敦のこの本を読んで、こういう事態に対して、「これだけでは長くやっているといずれ飽きる」と言い返す語法を覚えた(笑)。