作曲のレッスンで香具師の口上を学ぶ

並の作曲家ならこの場面をどう音楽化するか考えてみよう。[……]

ではセリアのパターン通りのこの場面を、いったいモーツァルトはどう作曲したか?[……]これだけパターン通りに書かれた台本でありながら、そこに少年モーツァルトが「生きた人間の情感の揺れ」をみずみずしく描き出す腕前には驚くほかない。(54-56頁)

比較は対象の特徴を浮かび上がらせるための知・科学の基本的な方法のひとつ。同じ題材を扱った2つの劇音楽を比べてみよう、同時代同じ地域の同じ楽団のために書かれた2つの交響曲を比べてみよう、という試みは、音楽の研究や評論に単なる言葉遊びではない「知」や「科学」の装いを与える格好の手段として、20世紀に盛大に行われた。

様々な比較を繰り返すことで、篩の目を細かくするようにして、音楽をめぐる議論がどんどん精密になってきた。それは、20世紀の音楽論・音楽研究の誇るべき成果のひとつだと思う。

でも、上の引用は、何かが違う。

オペラの運命―十九世紀を魅了した「一夜の夢」 (中公新書)

オペラの運命―十九世紀を魅了した「一夜の夢」 (中公新書)

出典はこれ。学生と一緒に読み進めるなかで、取り扱いに注意が要る論法のひとつとして、以下の議論も話題にした。

「どこに違和感があるか、香具師の口上と比較してみよう。」

神社のお祭りで人を集めて、香具師が何やら口上を述べている。

まず、日本刀を取り出して、居合抜きを披露する。藁の束でも野菜でも、たすき掛けで眼光鋭い香具師の鮮やかな刀裁きでスバスパ切れる。もうこれだけで見物人は拍手喝采だ。なかなか、やるもんじゃないか。

「さて、ここに取り出したるは、ガマの油。思わず目を背けたくなる異形のガマを、四方鏡張りの箱に入れますと、ガマは己の姿に恐れをなして、タラリタラリと脂汗を流します……」

とか何とか、ひとしきりネタがあって、そのガマの油を腕に塗ったらアラ不思議。我が村正の名刀(←ウソです)がツルリと滑って、これこのとおり。腕には何の傷も残りません……。

……一緒なんですよ。

お客さんが「こっちのほうがいい」と思うに決まってる噛ませ犬みたいなサンプルと比較して、いかにモーツァルトが素晴らしいか、とやる。しかも、当時のオペラ・セリアの具体的な実例を比較対象にしようとすると、「案外これも悪くないじゃないか」と思われてしまいかねないので、「一般的なオペラの定型はこうなのだが……」と逃げる。そして都合の悪いところを上手にごまかすのは口先三寸、そこが腕の見せ所になります。

最初に居合抜きを見せて信用させる。ガマの油の作り方を、わざと怪しげな話にして、見物人の注意をそっちへ引きつけ、ミスリードして、己の刀裁きのトリックが露見するのを防止する……等々。

ーーーー

わかってしまえば子供だましなのだが、音楽の世界でこの種の、「凡人と比較することで天才のすばらしさを賞賛するレトリック」がどうしてなくならないかというと、どうもこれは、文字通り、子供の頃の刷り込みではないかという気がする。

子供のころにだまされたことが、子供だましの技法に結実したのではないかと思うのです。

舞台は和声とか対位法とかの作曲のレッスン。

バス課題を与えて、それをひたすら実施する。ひとつの課題でできるだけたくさんの解法を考えなさい、とか、それこそピアノでハノンをちょっとづつリズムを変えて毎日反復練習するような日々が延々と続く。

でも、ボクが習っている先生はとても聡明で「音楽的」だから、そんな無味乾燥なエクササイズだけでなく、色々な曲を聴かせてくれる。

「ほら見てご覧、さっきやった課題とバスは同じでしょう。そこに、モーツァルトさんは、こんなに素敵なメロディーをつけているんです。まことにすばらしい。天才としか言いようがありません。」

とか、

「この何の変哲もないメロディーにバッハはこんなハーモニーを付けているんです。すごいでしょう。神様から与えられた才能ですよ。あなたも、これから少しずつバッハのコラールをお勉強なさいね。」

とか、きっと言われるんですよ。

子供を音楽に引き入れるためのレトリックとしてだったら、まあ、それでいい、というか、こういう物の言い方は、おそらく、西洋流の職人的な作曲教育にビルトインされて、何世代にもわたってリレーされてきた伝統みたいなものだと思う。

「天才」神話はレッスン室で創られる。

ひと頃、西洋音楽の「規範意識」の批判的吟味というのが流行りましたが、そんな高邁なイデオロギー裁判などどこ吹く風で、今日もどこかの音楽教室で、バッハやモーツァルトは「天才」として生徒たちを照らしていると考えた方がいいのではなかろうか。

岡田暁生はお坊ちゃんだから、ふと、そういうのを無防備に表に出しちゃうんだよね。

しかも、先生たちはこういうレトリックの危うさをそれなりにわかっているから濫用しないのだけれど、「これだ」と信じ込んでいるから、葵のご紋として、堂々と見せびらかしてしまう。

慎みを欠いた信仰の押しつけは、しばしば逆の効果をもたらす。

気をつけたい。

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皇帝や同僚音楽家たちの前でサリエリが初対面のモーツァルトから赤っ恥をかかされる場面も、同じ論法です。サリエリの「凡庸な」マーチと、それを即興的に=天才の閃きで改良していくモーツァルトが対比される。岡田暁生が『オペラの運命』のなかでも、とりわけモーツアルトに「凡人と天才の比較」(やや悪質な出来レース気味の)を適用したのは、映画の記憶が影響したのかもしれませんね。

今読むと、やや俗情に色目を使い過ぎな感じがします。