2013年は、ヴェルディとワーグナー、一代でイタリアとドイツに「オペラの城」を築いて、そのお城が今も継承されている、「初代」の人たちの生誕200年のアニヴァーサリーだったけれど、
2014年は、ミュンヘンのホルン奏者フランツの息子リヒャルト・シュトラウスと、大バッハ、ヨハン・セバスチャンの次男カール・フィリップ・エマヌエルの記念の年なんですね。前者の生誕150年、後者の生誕300年。
音楽家における「二世」について考える好機、ということでしょうか(笑)。
音楽評論家ユリウスが猛烈にプッシュして世に出たエーリヒ・コルンゴルトが年の初めに一部で妙に盛り上がったり、エマヌエル・バッハ研究の久保田慶一先生の肝いりで、モーツァルト父子についての本が出たのは、「二世について考える」という流れを作るためであった、ということにすると、わかりやすいかもしれない。
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モーツァルト家のキャリア教育──18世紀の教育パパ、天才音楽家を育てる
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それは、音楽家にとって「家族」とは何だったのか、という話にもなりそうですね。
昨年はそれを「父」の側から見る好機であり、今年は「子」の側から捉え返す巡り合わせになっている、と。
久保田先生によれば、エマヌエルは父ヨハン・セバスティアンのような「職住一致」の「大家族」ではない、近代的な核家族の走りのような生活をしたそうだし、もう一方のリヒャルト・シュトラウスは、ドイツ教養市民的な家族像の最後を看取る世代、という風に見えなくもない。
(エマヌエル・バッハのファンタジアや、シュトラウスの管楽合奏、ハルモニームジークは、彼らの「家庭」もしくは「私生活」から出てきたジャンルですよね。
そしてシュトラウスはドイツの音楽著作権の確立に尽力したことが知られていますが、エマヌエル・バッハも父と自分の音楽資産と言うべき楽譜の管理を厳格にやっていたらしい。音楽著作権や全集等の大規模な音楽出版がなぜ可能になったのか、少なくともドイツの場合、「家政」として音楽に取り組む職人音楽家の伝統との関係を考えないといけないのかもしれませんね。)
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そうして、グランド・オペラというのは、王家の血の争いという大状況に、近代市民が感情移入できるような家族・恋人たちの危機をはめ込むメロドラマなのですから、お手軽だったり時代考証が変だったりはするけれど、「家系/家族」を考えるネタの宝庫ではあるかもしれない。
(歴史大河ドラマを日曜8時の「お茶の間」で、親子で視るようなものか。)
ワーグナーのリングは、そういうドラマトゥルギーを濃縮した一面がありますよね。パトリス・シェロー以後の演出家たちがよってたかって暴いたように。
賛否両論あるみたいですが、池田理代子チーム版は、大蛇とかメルヘンなところを上手にカットして、近代的ですね。政治(アドルフまで登場する)を背景にした家族と恋愛の物語。
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電子書籍への移行を進めているようで、コミック文庫版の4巻は、中古でないともう手に入らないみたい。
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それにしても、そのような「家族」と社会もしくは政治との関係を考えようとするとき、久保田慶一先生が、「[バッハは]宮廷音楽家すなわち国家公務員であった」と書いているのは、書き方が、そんなの当たり前で何のためらいもなくそうだ、という感じであるだけに、ドキリとします。
国民 nation という観念の確立は19世紀以後のことである一方、官僚制に支えられた国家 state の整備はそれ以前の絶対王政で既にはじまっていた、といわれます。
そしてこれはつまり、独裁ではなく立憲によってではあれ君主のいる国の場合、官僚がロイヤリストになっても不思議ではない、ということですよね。
東京音楽学校=東京芸術大学音楽学部は、我が国の「宮廷音楽家」を養成する機関なのであり、それゆえにこそ、我々が範とすべきはバッハなのだ、神に仕え、王に奉仕するが公僕である、みたいな感じ。
その精神が「家の伝統」として二代、三代と継承されたらどうなるか。今現在のニッポンの「二世」問題、というのは、そういうことであるような気がします。