「二世」が「大王」になるとき

メンツェル“サンスーシのフルート・コンサート”―美術に見る歴史問題 (作品とコンテクスト)

メンツェル“サンスーシのフルート・コンサート”―美術に見る歴史問題 (作品とコンテクスト)

フリードリヒ2世がドイツの「大王」に祭り上げられたのは統一ドイツ帝国においてであるらしい。ウンター・デン・リンデンにでっかい馬上の大王像が設置された「記念碑の時代」ですね。

シュピッタが皇帝をけしかけて、悪名高い「バッハ・チェンバロ」(←モダン・チェンバロのモデルになった無骨なあれ)を購入させた時期であり、若きシュヴァイツァー博士がシュトラスブルクで学位を取って、ヴィドールなどの薦めでフランス語のバッハ伝を刊行したりというように、「大ドイツ」の「大王」時代の「大バッハ」が喧伝されることになる。(1850年にスタートした旧全集は見事完成しておりますし。)

ランドフスカは、元来パリでプレイエル社に食い込んだり、ヴァンサン・ダンディのスコラ・カントルムに出入りしていた人なのだけれど(パリにいた頃は20代の無名の若手鍵盤奏者)、第一次世界大戦直前にベルリンで教職を得て、戦時中を帝都で過ごすことになった(←パリ社交界に「AO入試」で潜り込んだ女の子が、機械オタクめいた変人社長(当時のプレイエルの社長の開発した楽器の数々は、ヴァカンティ某の作った耳たぶマウスに似てグロテスクなものだったりする)のバックアップで売り込みに成功して、ヨーロッパで最も勢いのある音楽都市のラボのリーダーに特別待遇で抜擢された、みたいな感じかもしれない(笑))。どうやら、このやや危なっかしい経歴と、のちに北米へ身一つで脱出した直後のゴールドベルク変奏曲のコンサート&レコードの異様な人気が相まって、「大バッハの預言を語る巫女」(@吉田秀和)のイメージが付いちゃったのかなあ、という感じですね。

(第一次大戦後は、夫が亡くなり、単身フランスへ戻って、ナチスが侵攻するまでサン・ルーの森のお屋敷で平和に暮らしていたんで、ランドフスカ本人は、もうちょっと違う面をもっていた可能性がありそうですが、ドイツ全盛期のナショナリズムと関わり合いになると、あとあとまでロクなことはないっちゅうことですな。極東の音楽評論家に、まるで西太后のように嫌われちゃって、2000年代に入っても、ことあるごとに悪口を書かれちゃうのですから……。(私は、この件では吉田秀和が不当に偏見を抱いていると思う。ランドフスカについて、秀和はニューヨークで聴いた最晩年の演奏を死ぬまで何度もネガティヴに語り続けていて、ちょっとしつこいです。))

古楽といっても、このあたりのパリ、フランス系と、大バッハを押し頂くドイツ系、ドーバー海峡の向こうの英国系は、それぞれ感じが違ったみたいですね。

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で、フリードリヒ2世がエマヌエル・バッハやベンダと一緒に演奏している有名な絵は、19世紀半ばのリベラルな、当時の言い方だとビーダーマイヤー的な、文化と教養を愛する市民の目線で、王様を「啓蒙君主」として理想化した作品ということになるらしい。

オーストリア継承戦争から七年戦争までマリア・テレジアと争ったのと(=シュレージエン戦争)、ベルリンに歌劇場を建てたり、王立アカデミーにフランスの学者をたくさん招いたり、ポツダムのロココ調の離宮サン・スーシを造ったのは同時平行なのだから、「大王」と「啓蒙君主」と、どっちが間違いでどっちが正しい、とは言えなさそうではありますが。

バッハ父子も、この王様のイメージとリンクして色々な見え方をしてしまうのですから、ナショナリズムは面倒くさい。