「並の作曲家」の正体を君は知っているか?

今年は授業で学生さんと一緒に岡田暁生の本を読んでいると前に書きましたが、具体的には『オペラの運命』で、実はこれを、小岩信治『ピアノ協奏曲の誕生』と平行して読み進めています。

同じ19世紀の劇場の花形であるとオペラと、コンサートの花形であるコンチェルトの概説書を並べて読むのは、アクロバティックではあるけれど、得るものがあるだろう、ということです。

たとえば、岡田暁生はロッシーニを「王政復古の冷笑」と形容するわけですが、10年後に同じ時代がコンチェルトにおける「ポスト・ベートーヴェン時代」と語り直されてみると、ロッシーニについての私たちの見方も、今一度、検討し直されてしかるべきであろうなあ、と思えてくる。

で、

「並の作曲家ならこう書くところを、モーツァルトはこんな風に書いていてまことにすばらしい」

という物の言い方が私は大嫌いだ、ということを前に書きましたが、

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20140618/p2

「ポスト・ベートーヴェン」な1820年代の音楽家たちのことを資料にもとづいて語ろうとしたら、どれくらい手間暇かかるか、ということを追体験してみると、

(学生さんと一緒にフンメルもモシェレスもカルクブレンナーもヘンゼルトも、もちろんウェーバーも、「なんかほんとに、みんな同じパターンで作曲しているね」と、少々うんざりしながら、全部、あらためて聴きましたよ)

「並の作曲家」や「凡人」たちのことを本気で理解・把握すること、つまり、ある時代の平均値or多数派or中庸or標準はこれだ、というのを説得的に論証することは、メチャメチャ大変ですよ。

小岩さんの本だって、いちおうこれがスタンダードである、と呼んではいるけれど、あくまで、当時の人気上位の代表作がお互いによく似ている、ということが言えただけです。(それを言うだけでも手間暇のかかる立派な業績ですけれど。)

「並の作曲家はこうだ」とか、「凡人はこうやるものだが」とか、気軽に言うな。お前は「並」や「凡人」のことをいったいどれだけ知っとんねん。ただの知ったかぶりやんけ。お前は、「天才」や「非凡」のこと以外、これまで本気で考えたことなんてないやんけ!

と言いたいわ(笑)。

まあ、今ではここまで頭の硬い「非凡」フリークは、逆に珍しくなりましたけどね、学者では。

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統計調査的なものを踏まえた音楽の社会史・文化史はあるけれど、それじゃあ、「並」とか「凡人」とか「平均的」とか呼ばれる作品を個別に語ることはできるのか、それにふさわしい語り方とはどういうものか。これは、また違う話であって、『ピアノ協奏曲の誕生』という本の前半は、その挑戦ですよね。

その意味で、「並の作曲家はこうだが、非凡な天才はこうやる」などという知ったかぶりを、二度と言えなくするためにこういう仕事がなされている、と言えるかもしれない。

「凡庸なもの」をどう語るか、というのがチャレンジングであるような局面がある、もしくは、来ているよなあ、ということだと思います。

(こっちに関心を振りすぎると、今度は、「あなたたちにはわからないかもしれないけれど、私には非凡・天才がビビビっとわかるのよ」とか言い出す電波な人が出てくるから、そうなったら、また、別の対応も必要だとは思うけれど。)