ホフマン物語

「国際フェスティバル」には、オーケストラ公演だけじゃなく、こっちを持ってきて欲しかった。合唱が立派だから、ダフニスとクロエも盛り上がっただろうとは思うけれど……。

この形にすると、ミューズ/ニクラウスが一層おいしい役ですね。チョーフィが一人三役で声も枯れそうに頑張るんだけれど、ああいう幕切れだと、最後はホフマンを抱きしめるミューズの印象が強く残る。

ギリシャ神話に出てくる守護神みたいな役ですね。

大道具が生き物のように動いて、空間が自由自在にトランスフォームするのを、ホフマン当人はおのれの夢のような記憶と思っているのだろうけれど、実はこれ、すべてミューズ(と悪魔)の仕業なのかも、という気がしてくる。

(階段を上がった上の階で、一度さっと背後の大道具がなくなって、アントーニアとホフマンが別れ別れになって、そのあと二人が(というか二人それぞれをのせた大道具が)近づいていくところとか、大道具の名演技。)

そういえば、「地獄のオルフェ」も神話のパロディで「世間」とか出てくるのだし、ホフマン物語に神話的な感じがあったとしても、おかしくはないわけか。「音楽の現代」がはじまった消費都市パリにおいて、近代的自我が確たる自立を果たしているはずがないだろうから。

(ところで、昔、岡田暁生が、「大阪の演奏会に行くと、どんなに素晴らしい演奏を聴いても、一歩会場を出るとゴミゴミした繁華街を通ることになって興ざめだ、だから大阪は……」みたいなことを書いていたが、Bunkamuraから谷底の渋谷駅界隈へ下る道筋も、「かつてここは“ポストモダン広告都市”としてある種のニッポンジンの自慢だったのだ」というオーラを取り去ったら、たいがいですよねえ。それぞれの店にプライドや謂われがあったりするのかもしれないけれど、頭の上から広告の声と映像が絶え間なく降ってくるし、道路の交通量は多いし……。

いや、悪口に悪口で返す子どものケンカ、ということではなく、人は見たいものを見てしまう、蔑みたいと思うと、アラばかりが気になってしまう、ということだと思います。

オーチャードホールは、昔、井上道義・京響でバーンスタインの「ミサ」を聴いて以来でございました。)