ゴルトベルク伝説は、セキュリティ・ホールを塞ぐアップデータが既に配布されています

東京書籍『バッハ事典』より(序文によると、執筆は礒山雅)。

「ゴルトベルク変奏曲」の標題もここ[1741年の出版譜]には見当たらないが、これはバッハの死後につけられた通称で、由来は、フォルケルの『バッハ伝』に記された次のエピソードにある。

[……]

この逸話が事実であるとすれば、バッハはゴルトベルク少年の技量を見込んで、この変奏曲を作曲したことになる。だが近年の研究はこれに懐疑的である。なぜなら、ゴルトベルクは当時たったの14歳だったのだし、長じて作曲した作品にも、当曲のような華麗な技巧はうかがえないからである。また、もしカイザーリンク伯爵の依頼で曲が書かれたのであるとすれば、初版に謝辞が含まれていないのはおかしい。[……]

クリストフ・ヴォルフ『ヨハン・セバスティアン・バッハ 学識ある音楽家』より。

[クラヴィア練習曲シリーズの]最後の第四部は1741年秋に(第二部と同じくニュルンベルクで)出版された。フォルケルは、この作品がドレスデンのヘルマン・カルル・フォン・カイザーリンクの依頼で創られたと述べている。[……]しかし、あらゆる内的および外的な手がかり([……])から判断して、いわゆる《ゴルトベルク変奏曲》は個別に委嘱された作品ではなく、最初から《クラヴィア練習曲》シリーズ全体の概念に統合されていたもので、このシリーズの壮大なフィナーレになっている。

以上2つの、出典を明示して創作者誤認惹起の恐れがないと思われる引用(「創作者誤認惹起」の懸念の有無は、引用された主張の妥当性の判断と間接的にしか関わらないのは言うまでもないことだが)は、バッハが作曲したカイザーリンク伯爵のための子守歌などというものは、はじめから「なかった」と主張している。これが現在のバッハ研究の定説であるようだ。

フォルケルのバッハ伝の逸話を鵜呑みにはできないらしい、というところまでだったら、最近では曲目解説や一般読み物にも普通に書いてあるんじゃないだろうか。

こうした疑わしい風説を排除して、当時の出版譜などを調査することで、バッハ晩年の「クラヴィア練習曲」という全4部から成る巨大なプロジェクトの全貌とその意義を明らかにしたことは、バッハとは何者であったのか、という理解の根幹に関わり、最近のバッハ研究の大きな成果のひとつだと思う。

そしてある種の作曲家が最晩年に自らのコンポジションの集大成を目指すことがある顕著な事例として、これはベートーヴェンやリストやリヒャルト・シュトラウスの晩年、いわば定冠詞付きの「後期様式」を考えるうえでも見逃せない事態であるはずです。

「どうせ子守歌なんだと思えば、凡庸な演奏も許されようが」という、オッサン臭い皮肉が受け入れられる場所は、残念ながら、もうなくなってしまったのです。

知がその経路を具体的にたどることのできる形で伝承されるネットワークのイメージ、そしてその網状の回路を通って、ときに情報が大きなハブへ集積されることがあり、それが「後期様式」という現象だ、という見方。これは、人知を越えた高みからインスピレーションが降ってくる、という、カビ臭いロマンチックな天才論への最有力の対案だと思います。小鍛冶邦隆の「知のメモリア」という比喩も、こうした近年の作曲論の動向を踏まえたものだと考えられます。そろそろ、いいかげん、音楽論のツールキットをアップデートしてください。古いヴァージョンでネットワークにアクセスするのは、セキュリティの観点からも推奨されません(笑)。