希望と現実

びわ湖ホールの一番下の階でコンヴィチュニーがトラヴィアータの一番しんどい第2幕を緊迫したなかで作っている一方、上の階では芸術監督の沼尻竜典がセンチュリー響のコンサートとロビーコンサート(←去年のコンヴィチュニーの「魔笛」に出ていたお二人のびわ湖声楽アンサンブルOBがご出演)の2つをこなす慌ただしい一日でございました。

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「オペラの未来」ということで言えば、たぶんコンヴィチュニーは、指揮者のパパや歌手のママのようにはいかなくなった時代に、ちりぢりばらばらな微かな手がかりを決して見逃さないようにして、ちょうど、壁の小さなでっぱりに指をかけて、ものすごい力業でよじ登るようなアクロバットを続けて、俺がオペラを生き延びさせてきた。もうここで華々しく自爆しちゃったほうがいいんじゃないか、みたいな性急すぎる誘惑も乗り越えて、どうにかここまでたどりついて、あとは余生、最後のカーテンを開けて、私はその向こうへ行きます、ということなのかなあ、という気がします。「読み替え」の急先鋒というスーパー娼婦めいた挑発を散々やってきた私は、ヴィオレッタの側に立つ、ということでしょうか。

(オペラ・セリアは神話、グランド・オペラは歴史劇ですから、舞台の上で「私」をさらけ出すオペラというのは、19世紀後半以後のことですよね。ワーグナーは新しいことに果敢にチャレンジしたようでいて、案外、そういう「私小説」風な作品はない。内省的な長台詞があって深遠な感じがするけれど、それを言ってるのは「現代人」じゃないんですよね。(だから「読み替え」なり何なりの解読・注釈を、手間暇かけて、こちらがやってあげなきゃいけない。独文出身のワグネリアンさんは、これが大好物(笑)。)むしろヴェルディの中期以後の、それぞれに特殊な事情を抱えた主人公たちのほうが、他人事でなくやってるように見えてダイレクトに「刺さる」。)

で、散々闘った余生の境地にいる人だから、コンヴィチュニーは非常に明快に、オペラの世界の「バカども dumm」を突っぱねるし、「メトやスカラ座で仕事をする気はサラサラない」とか言うんですよね。

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でも、劇場の責任者を引き受けちゃっている人間はそういうわけにはいかなくて、トラヴィアータの社交界みたいな人たちが喜ぶアトラクションもちゃんと用意しなきゃいけないし(センチュリーのコンサートは、甘い物に蟻が集まるみたいに、期待のホープの歌い手さん目当てのプレス・業界関係者が多かった)、とはいえ、そんなことばっかりやってるとホントの「バカ」になっちゃうわけで、自作「竹取物語」のいくつかのナンバーがロビー・コンサートで演奏されましたが、「こういう作品が是非とも必要なのに存在しない、だったらオレが作る」という感じの切実な Do It Youself は、めちゃくちゃ立派なことなんじゃないかと感動してしまいました。

あと6日、何かが割り込むことはもうなさそうなので、コンヴィチュニーの「残された生の過ごし方」をじっくり拝見させていただこうと思っておりますが、沼尻竜典「竹取物語」の全体像がどうなっているか、というのも、とっても気になります。