アンサンブルの構成

オペラを演劇として充実させる、と言うときに、今も昔も人が真っ先に思いつくのは、棒立ちや定型の所作ではない「豊かな表情」と「生き生きした動作」だと思われ、これは、オペラグラスで歌ってる人をじっくりズームで観察すれば、比較的簡単に「採点」できるので、オペラ批評で○×式に、この人はできている、この人はダメ、このプロダクションはいい、あれはヒドイ、と言いやすいわけですが、

もちろん、「演劇的」とは何か、というのは、もっと色々あるわけですよね。

たとえば、複数の人物が出たり入ったりしながら会話が続いて、そのなかで状況が次第にはっきりしたり、ストーリーが進んだりするのが良い台本で、ひとりで言えることを割り台詞にするのはバカな作家のやることだ、というような言い方があったりする。

日本に西洋演劇が入ってきたときも、演劇の早稲田の坪内逍遙先生といえばシェークスピア劇の翻訳だし、昭和の新劇といえば、チェーホフの、戯曲を読むだけだと誰が誰だかわからなくなる室内劇じゃないですか。

おそらく、戦後、東京芸大の人たちが二期会を作って、「正しい歌唱法」と同時に、「モーツァルトをちゃんとやる」というのを目標にしたのも、いわゆるアンサンブル・オペラに「演劇としてのオペラ」の真髄があると考えたからだろうと思います。二期会が「こうもり」をヒットさせたのもそのラインでしょうし、終戦直後のウィーンでシュヴァルツコプフなんかがモーツァルトを一生懸命やったり、フェルゼンシュタインがコーミッシェ・オーパを自分のお城みたいにしてやり続けたことと同じ時代の潮流という感じがします。

で、こういうオペラは、個々人の表情とか、相手との台詞のキャッチボールだけでなく、舞台上のフォーメーション(の推移)が大事そうですよね。スムーズにお互いの立ち位置を入れ替えたり、何かのきっかけで上手や下手、奥や手前に移動したり、人と人とが離れたり接近したりすることで、人物の関係が舞台化 Inszenieren される。

他の要素に気を取られるのか、あまり指摘されませんけど、コンヴィチュニーは、このあたりのアンサンブルでの人の動かし方のアイデアとテクニックも、コーミッシェ・オーパ仕込み、という感じがあると思うんですよね。

前にやった「ボエーム」の6人をどう動かすか、というのもそうだし、「魔笛」では3人のダーメを、3人ひと組ではなく、タミーノ、パパゲーノ、夜の女王と絡ませながら、それぞれを別の人格として動かしていましたし(そういえばダーメは名無しですが、ワーグナーのワルキューレはそれぞれ名前がある、ワーグナーは役者の心がわかってるなあ、ってことですかね(笑))、今回のトラヴィアータの冒頭のパーティで乾杯の歌に至るくだりと、真ん中の夜会は、その集大成なのかな、という風に思いました。

オペラ冒頭は合唱と主要人物たちが混ざりますが、フローラの夜会は、4人(フローラとガストン(←子爵、彼はアルフレードの友人だけど爵位のある貴族なんですね)と侯爵と医者)が噂話してるところに、バレエをカットしたのですぐにアルフレードが来て、そのあとヴィオレッタと男爵が来て、カード賭博の音楽がスタートすると、食事でヴィオレッタ以外が退場するまでの間は7人のフォーメーションが次々変わっていく形にしていたんですよね。

実際に観たり、図にまとめたりしないと、わけがわからないとは思いますが、

カード賭博の音楽は、間にヴィオレッタの独白が3回入って、たぶん、動きを作っていく目印はこれだったんじゃないかと思う。1回目は椅子に倒れ込んで歌って、2回目はフローラに抱きかかえられた状態で歌って、3回目は椅子から崩れ落ちながら歌う、という風に追い込まれていく。もはや自力で立てなくなったところで一声、座ることすら辛くなったところで一声、そしてついに崩れ落ちて一声……。病気はかなり進んでいそうです。

あと、これは稽古のなかでコンヴィチュニーも説明してましたが、最初はフローラがガストンその他のグループにいて、ヴィオレッタは男爵とペア、アルフレードが独りで椅子に座っているんだけれど、まず、アルフレード以外の立っている6人がひとつのグループにまとまって、次に、6人がアルフレードに近づいたところで、椅子に座るのがヴィオレッタに入れ替わる(←ここで彼女の1回目の独白)。そしてヴィオレッタにフローラがくっついて、男6人と女2人に分かれるんですね(←カード賭博の最中にヴィオレッタの2回目の独白)。なんだか、ルービックキューブをくるくる回して、いつの間にか同じ色がそろってしまうような感じがしました。

で、最後は男6人のうち、ライヴァル関係のアルフレードと男爵、椅子の前にヴィオレッタだけが残って(←このフォーメーション・チェンジで彼女の最後の独白)、舞台上は、いわゆる「男同士の絆」状態になるんですよね。

ちょっと理が勝ちすぎている感じではあるけれど、ここは、そういう「今どきのインテリっぽい舞台」を意図的に構成したんだろうと思います。

このあと、合唱が戻って大暴れするのを単体で取り出して、「またコンヴィチュニーがいつものをやってるよ」とみた向きもあるようですが、そこに至るプロセス、もっていきかた全体が「モダニズムの自壊」って感じになっていて、インテリ向けにしっかり保険が掛けてあるのを見落とすと、一方的な言いがかりになっちゃうだろうなあ、と思います。

クライマックスのカニバリズムは、DVDにもなっている過去の舞台上演のカーテンを全部引っ張り落とす演出ができないので、どこまで効果が出るか、本番をみないとなんとも言えませんが、そこへ至るアンサンブルは、このプロダクションのなかで、わたくし、一番好きな場面ですね。

ドラマW 三谷幸喜「大空港2013」DVD(2枚組)

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カード賭博の音楽のところは、映画の長回しに似た緊張感があると思う。空港でたくさんの人が往来する手前でアンサンブルが展開する三谷幸喜のドラマみたいな感じ。まあ、演劇系の演出家は、誰もがこの種のテクニックをマスターしていて、一種の定番の virtuosity ということではあると思いますが……。

こういうのは、作曲家が対位法の課題を実習するように系統立てて勉強するメソードがあるんでしょうか。それとも、ゼッフィレッリや三谷幸喜が子供の頃の人形遊びを芝居・演出の原点だと語っているように(←映画監督たちがベッドで影絵遊びをした思い出を語るのに似た話)、こういうのは自力で身につけてしまうものなのでしょうか。