最後に敵(?)に塩を送る

……ということで、言いたいことはほぼ言い終えたので、最後のオマケ。

すでにここまでの作文でおわかりかと思いますが、今回のコンヴィチュニーのオペラ・アカデミーには、東条碩夫と加藤浩子が来ていました。

どちらも、国内国外両方のオペラ公演を数多く観ていて、それをちゃんと仕事につなげて、なおかつ、その都度、自前のブログで情報を出すので、全方位的にありがたがられるタイプの方ですよね。現在の音楽ジャーナリストのあり方としては、理想に近い。

で、端的にそれぞれの立ち位置を言うと、東条碩夫は一種のワグネリアン(自称もしている)で、加藤浩子はベル・カントの熱烈なサポーターですから、コンヴィチュニーとの相性は元来それほど良いとは言えない。

お二人のブログには、そのあたりの事情がわかりやすく現れていると思います。

でも、そのことを確認するだけでは、あまり生産的ではないと思うので、茶々を入れておきたい。

東条碩夫は、大変な社交家で情報収集にも熱心で、そつなく、大きなヘマをやらかすこともなく今日に至っていらっしゃるわけですが、目の前で起きている出来事を「聴く力」「見る力」だけで言うと、残念ながら、大したことないと思います。だから、立場上、コンヴィチュニー(への熱狂)に冷や水を浴びせることを言いたいのだとは思いますが、この人がコンヴィチュニーについて決定的なことを言える可能性は、おそらくこの先もないと思う。ご本人も、たぶん、それで特段困らないだろうし。

加藤浩子は、逆に、コンヴィチュニーに対して物わかりが良すぎると思う。研究者としての基礎があり、ベル・カントを聴く耳が肥えているのだから、もっとちゃんと突っ張ったほうがいい。

例えば、コンヴィチュニーの演出を聴きにいって、最初から最後まで一切舞台を見ずに、目をつぶって「声」だけを聴いたときに、それがどう聞こえるか、そこを詳細に論評してもいいんじゃないか。

コンヴィチュニーは、なんだかんだいって60歳過ぎのじいさんであって、古楽やピリオド・アプローチ、最近のベルカント歌手の動向などに追いつけてないのは明らかじゃないですか。(「ティト」のときはスダーンと一触即発だったらしいし。)

ドイツ音楽についても、コンヴィチュニーの趣味はちょっと古くて、その古い音楽観にもとづいて演出を組み立てていると私は思う。

自分が子供の頃から使い慣れた道具を使って仕事をしている人だから、彼の子供や孫の年代の人間がやるべきなのは、「おじいちゃん、それはこういう風にもできるんだよ」と教えてあげたり、ときには、「そんな古い考え方を押しつけられてはたまらん」と正直にケンカすることだと思う。

腫れ物に触るように大事にされたら、おじいちゃんは、かえって寂しいんじゃないかと思うんですよね。