劇場・音楽堂職員のためのオペラ演技の基礎知識、のようなもの

もし本気で日本のどこかにオペラ演出家養成コースを作ろうと思ったら、人材・設備だけじゃなく理論が要ると思いますし、自分のための整理にもなるので、オペラの演技って何なのだろう、ということをまとめてみた。

想定読者は劇場・音楽堂職員。その種の企画を実現させようと思ったら、そういう立場の人に何をやろうとしているのか理解してもらわないといけないだろう、というのがひとつ。そしてもうひとつ、劇場や音楽堂の職員は、日常的にオペラ歌手とつきあうことが多いにもかかわらず、必ずしも音楽やオペラ・演劇の専門家ではないので、オペラ歌手が実際のところを何をやる人たちなのか、いまいち実感としてわからない可能性があり、知らぬこととは言え、半可通で変なことを言ったりやったりして、「地雷を踏む」可能性が高い。そういう不幸な事態を未然に防止するのに多少は役立つかもしれないと期待しつつ……。

(1) オペラはリアリズム演劇誕生の300年前から続く古い演劇様式である

音楽堂の職員、とりわけ、フォルテピアノやオルガンを備えて、古楽やピリオド・アプローチに理解のある方なら、当然ご存じかと思いますが、ヨーロッパの楽器は、ピアノもオーケストラのフルートもトランペットも、ヴァイオリンのような弦楽器も、ほぼすべて、19世紀に大幅に改造・改良されています。そしてそのような改良型のモダン楽器を使って、演奏法にも、ヴィブラートを多用したり、アンサンブルの精度を高めるためにテンポ設定を合理化するなど、新たな工夫を加えることで、バッハやモーツァルトの時代には考えられなかった音楽鑑賞専用の近代ホールでの演奏に対応しています。日頃わたしたちが耳にしている「クラシック音楽」は、実は19世紀以後の楽器を使って20世紀のスタイルで演奏した「現代音楽」です。

同じことはオペラにも言えるはずだと考えられます。

ガス灯の発明は19世紀、電気照明は20世紀で、それ以前の劇場には蝋燭の照明しかありませんでしたから、オペラ劇場の、建物自体はバロック期のままだとしても、空間の明るさ、印象は当時と今ではまったく違うと考えた方がいいと思います。(現在の歌舞伎座と香川の旧金毘羅大芝居くらい違うはず。)

蝋燭照明の劇場では、役者や歌手が出番になると舞台前面に出てきて、台詞や歌を言い終えると奥へ下がって、次の役者や歌手が出てくるスタイルだったと言われます。舞台後方は薄暗いですから、「受けの芝居」や「コーラスの演技」が有功だったとは考えにくい。

そのような古いスタイルと決別したと言われるスタニスラフスキーの演技論が普及したのは電気照明が劇場に入った20世紀前半ですし、細やかな顔の表情の演技は、ひょっとすると、舞台ではなく映画の発想なのではないでしょうか。役になりきるために歯を抜くロバート・デニーロ(アクターズ・スクール)など……。

マリア・カラスはオードリー・ヘップバーンを目標にダイエットしたと言われますが、現在わたしたちが目にするオペラは、19世紀に改良された楽器を使って20世紀のスタイルで演奏するオーケストラに乗せて、20世紀の演劇や映画の演技術を可能なかぎり取り入れた「現代演劇」です。

そして器楽演奏は、いくらなんでも20世紀の都合に合わせすぎると無理が生じるということで古楽復興に由来するピリオド・アプローチが取り入れられつつありますが、おそらく、オペラも同じくらい無理に無理を重ねたところに現在の姿があります。棒立ちや定型の所作は古くさいから止めろと、どんなにシツコク言われても、つい、オペラの舞台上にそれが出てきてしまうのは、何百年も前の古い芝居が、どんなに「現代的」なお化粧をしても、古さを隠しきれない瞬間なのかもしれません。歌舞伎役者が現代劇に出ても、つい、見栄を切ったり、科白まわしに癖がついてしまうようなものでしょう。

もちろん、今では、そんなベタな歌舞伎役者のほうが珍しいくらいですし、オペラ歌手も「古さ」を隠すのが随分上手になりました。でも、「無理をしている」ことに違いはない。そして、楽器はキーを付け加えたり、各部分のサイズを変えるといった改良が自由にできますが、歌手は自分の身体が楽器であり、時代の要求が変わったからといって、楽器のように改良・改造することはできません。手持ちの身体でどうにかするしかありません。オペラの演技論というのは、煎じ詰めれば、歌手(の身体)がどういう無理なら許容できて、どういう無理は許容できないか、という問題に帰着するように思われます。

(2) オペラ歌手がリアルな演技に徹することは不可能ではないけれど、やった結果が面白い芝居になる保証はない

そしてオペラの演技を考えるときに決定的に重要なのは、自明の前提ではありますが、歌いながらの演技だということです。これは、いわゆるリアリズムの演技術(スタニスラフスキー・システムであれ、アクターズ・スクールの流儀であれ、現在、「演技の基礎レッスン」とされるものは、ほぼ、これを目指している)とは、まったく別の身体表現だと思われます。

どういうことか?

演技は、台詞の発声と身体動作の2つから成り立つと、ひとまず言えるかと思いますが、いわゆるリアリズムの演技術は、台詞の発声(が示すもの)と身体動作(が示すもの)を同期・同調させるのが基本です(よね)。

  • 「○○さん、こんにちは」と発声しながら、にこやかな表情で相手に近づき、正面に立つ。
  • 「さようなら」と発声しながら、相手から視線を外して、遠ざかる。

というのがリアルで、

  • 「○○さん、こんにちは」と発声しながら、相手から視線を外して、遠ざかる。

とか、

  • 「さようなら」と発声しながら、にこやかな表情で相手に近づき、正面に立つ。

とか、

というのは、ブキミでありえない行動だ(笑)。

竹中直人が、満面の笑みを浮かべながら怒る、というネタをよくテレビでやっていましたが、そんな風に、発声と行動(表情)を乖離させるのは、リアリズムとは違う何かだ、とされています。だからブキミに可笑しい。

でも、オペラはずっと歌っていますから、むしろ、そんな風に発声と行動が乖離・分離した状態が通例です。

もちろん、訓練すれば発声と行動を完全に分離してコントロールすることはできると思いますが(そしてアンチ・リアリズムの演劇においても、そのような身体の異化は大事なテクニックなのだろうと思いますが)、モーツァルトやヴェルディのオペラで、音楽はそのままにして、表情や行動を徹底的なリアリズムに徹したら、おそらく、へたくそな映画監督が撮影した、口パクが丸わかりの不出来なオペラ映画のようなものになってしまうと思います。

だいいち、「Adio」と歌うのと、普通に「さようなら」と言いながら立ち去るのではタイミングが違ってきますから、このギャップをどうやって埋めるのか。

オペラというジャンルでは、リアリズムは不自然なんです。

そしてそれじゃあ、どうしてこんな悩ましい事態が生じてしまうかというと、最初に書いたように、そもそもオペラは、リアリズムの演技がなかった時代に生まれた古い演劇様式だからです。無理を承知で、リアリズムに見えるような調整を施しているに過ぎないのです。

ここに、オペラの「複雑さ」があるのだと思います。

では、具体的に、何をどうしたらいいのか?

(3) 問題は「みんな」で解決するほうがいいんじゃないか?

選択肢は3つあると思います。

ひとつは、オペラとリアリズムの相性が悪いんだったら、リアリズムなんてやめちまえ、と開き直ってしまうこと。

残念ながら、芝居は記録が残らないので、楽器演奏のようなピリオド・アプローチで過去の演劇様式を復活させるのは相当難しいと思いますし、オペラでそれに挑戦した例は、ないことはないけれども、まだわずかだと思いますが、それでも、リアリズムを止めてしまうことは不可能ではない。

ブゾーニや弟子のクルト・ワイルは、攻めの姿勢で、オペラの不自然さを誇張する異化的演出を提唱したことで知られますし、栗山昌良が能のように歌手を静止させるのも、アンチ・リアリズムのひとつのやり方と言えるでしょう。そういうことをすると、前衛だ、とか、退屈だ、と批判されて、商売にならないことが目に見えているので、よほどの覚悟がないとできないけれども、可能性としてはあり得ます。

もうひとつは、歌手に任せてしまおう、という考え方。何をどうすればいいか、何ができて、何ができないか、一番よくわかっているのは歌っている張本人である歌手に違いないのだから、表情を作ったり、動作を工夫するのも仕事のうち、その分を含めて高いギャラを払っているので、何とかしてください、プロなんでしょ、というわけですね。ぶっちゃけ、オペラ界の主流はこれだと思います。

でも、その結果なにが起きるかというと、表情や動作を工夫するといってもできることには限界があるのだし、あとは声・歌でカヴァーするしかない。というより、そもそも、歌手として私がここまでのし上がってきたのは、なんといっても「声の力」。これが私の最大の武器なのだから、表情・動作は必要最小限に留めて、声と歌、いわゆる「音楽性」で勝負します。という解決策が、どうしたって出てくるわけですね。こういうことになるのは、歌手の立場で考えたら、もう、そうするしかないんだ、という心境なのだろうと思います。

そして、この路線で歌手が頑張ると、結構、お客さんにも「熱演」として受けるわけです。

歌手が悪いというより、歌手がそうせざるを得ないところへ追い込まれていると見るべきじゃないか、歌手が悪いというより、歌手も被害者だと思います。

そして3つめの選択肢が、問題は「みんな」で解決しよう、という考え方で、演出家の積極的な関与・介入を求める最近の潮流は、オペラの演技論としてはこの系譜になるようです。

例えばアリアの締めの長大で絢爛豪華なコロラトゥーラは、リアリズムならざるものの極北で、難しいので、同時に表情や動作で何かをやるのは負担がかかりすぎる。だったら、周りの人間の「受けの芝居」でカヴァーしよう。あるいは、小道具を使ったらどうだろう、と考える。

そして、歌っていない人間にサポートを求めたり、道具を用意したり、何らかの段取りを入れるんだったら、歌手が独力で工夫するより、演出家が介在・介入して交通整理するのが合理的であり、効率的であろう。

おおよそ、そういう理路で、オペラ版「演出の劇場」が出来上がったと推測されます。

例えば、先の「椿姫」のワークショップで、コンヴィチュニーは、ジェルモンのアリアのコロラトゥーラで、座っているアルフレードに次の動作に至る伏線の芝居をさせたり、ヴィオレッタのアリアで、ヴィオレッタ自身に(←ここが重要!)カーテンを緩やかに開閉させていました。前者は、「受けの芝居」を同時進行させることでドラマが停滞することを回避する手法の極端な例(アルフレードは父親に反抗している設定なので、アリアを「まともに聴こうとしない」芝居を続けた)であり、後者は、顔の表情や定型的な動作だけでは客席に伝えるのが難しい心の揺れを、カーテンの揺らぎによって、舞台全体に大写しで視覚的に投影する狙いだったと思われます。前者は、芝居を相手役にゆだねることで歌手が歌うことに集中できるメリットがありそうですし、後者は、カーテンの動きが声の揺れにフィットするように努力することで、歌い手自身が、自分の歌唱の意味と効果を再確認する効用が期待されていたのだと思います。

コンヴィチュニーがオペラ演出家の学校を作りたいと言うのは、こういう風に、この場面のこういう歌だったらこういうことができる、という手法の在庫を豊富に持っている自負があるから、それを後進に伝えておきたいのだと思います。

(4) どの手法をどこで使うか、決め手はTPOの見極めだ

コンヴィチュニーの稽古を見ていると、ときには、「ここは演劇学校の初級コースか?」と思うような「役作り」の指導をはじめることがあります。だから、もしかすると、「オペラ歌手はこんな演劇のイロハも知らないのか」とあきれるかもしれない。

でも、オペラという演劇様式では、全員がべったり「役作り」すると、too much なことがある。デリケートな独唱や声のアンサンブルの場面では、歌に客席の注目を集めるために、周りがなにもしないほうが効果的だ、という考え方は十分にあり得るし、そういうところに出てくる人は、通常、むしろ、気配を消すことを考えると思います。人間がそこにいることを忘れさせて、音楽だけが鳴り響いているかのようなイリュージョンを作り出そうとする。音楽家にとって、それは、さほど異例ではない態度、コンサートにおいては、むしろ、それが望ましいとされるような態度です。

コンヴィチュニーが「演劇学校初級コース」をはじめるのは、たいてい、そういう風に気配を消すのが慣習になっている役や場面に対してであって、演劇においては「初級コース」であるようなアドヴァイスが、オペラ・音楽においては「高等戦術」である、という逆説がしばしば起きます。

歌手が役作りをサボっているのではなく、役や状況の設定が存在しない(と通常は考えられている)場面というのが、オペラにはあって、そういう場面に、敢えて「生きた人間」を出現させるには、演出家の積極的な関与が必要になります。

逆に、瀕死のヴィオレッタがアルフレードの前で虚勢を張って、元気いっぱいに振る舞って見せる場面では、彼女が軽やかに声を転がすパッセージで、歌手に敢えて定型的に両手を広げるポーズで踊らせていました。ドラマの状況次第では、骨董的に古くさい演技手法を再利用できる場合もある。教条的に特定の演技術を押しつければいいわけではない、ということです。歌手にとっては、やりなれた手法ですから、緊張を解いて歌い演じることができるし、そのように「楽にこなす」ことがドラマの上で効果的である事例です。オペラが、伝統的・慣習的な演技術をすべて捨ててしまって、「若作り」しさえすればいい、というわけでもないのです。

そのあたりを踏まえて、コンヴィチュニーは、オペラにそれ専門の知識とノウハウ、技術をもった演出家が必要なのではないか、と主張しているのだと思います。

演劇学校を出たばかりの人に、のべつくまなく、すべての場面で「役作りの基本」を叩き込まれても、歌手はかえって困惑する。オペラ歌手がそのとき、その場面で求めているのは何なのか、ということを察知して、必要なときに必要なアイデアを提示できる人材がいないと、オペラ作りは回っていかないんだろうと思います。

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以上、当たり前すぎる話のような気もしますが、案外、順序立てて説明しているものは、ありそうでないような気がするので、まとめてみた次第でございます。

この種の「正当性の主張」を準備できたとしても、それだけで、じゃあ、オペラ演出家養成コースをどこかに作ろう、と物事が動くような甘いものではなかろうと思うし、色々大変だろうとは思いますけれど……。