音楽と演劇、音楽の演劇、地方分権の演劇、世界都市の演劇

Orfeo La Venexiana/Claudio Cavino

Orfeo La Venexiana/Claudio Cavino

http://ml.naxos.jp/album/GCD920913

クラウディオ・カヴィーナ Claudio Cavina の La Venexiana (以前は「ヴェネシアーナ」と表記されていたが、今はヴェネクシアーナのほうがいい、ということになっているのかな)は、
2007年にフェニックスホールでモンテヴェルディのマドリガルを最高に面白く歌い演じたのを聴きましたが、今ではコンサート形式でモンテヴェルディのオペラを上演するまでになって、秋に東京と西宮で「ポッペアの戴冠」をやるようですね。

コンサート形式なのだけれど、歌い手は「音楽家である以上に役者だ」とカヴィーナは言っているようで、そのことは聴いたら明瞭にわかる。一連の「演出の劇場」に音楽家が真正面から受けて立って対抗するとしたら、こういうの、なんじゃないですかね。

マレク・ミンコフスキの一連の活動にも、近いものを感じますが……。

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「演出の劇場」の主張は、シロウト考えですが、たぶん、おおざっぱに2つあって、

  • (a) ドラマ(この場合はオペラ)を現代人の手に取り戻す。台本作家や作曲家に任せておくと、古くさい筋立て・カビの生えたトラマトゥルギーに立てこもろうとするから、演出家が大胆に介入すべきだ。
  • (b) 劇場はほっとくと伝統・因習でがんじがらめになって停滞しがちで、演出家は、各部門の調整役で終わりがちだが、長年の蓄積で、今や演出家は、華麗なテクニックで圧倒的な存在感を誇示できる。これからの劇場は、演出の virtuosity が主導権を握るべきだ。

そしてこの2つは、おそらく密接に絡み合っているのだけれど、(a)を強調すると、今は「読み替え」の時代だ、という話になるし、(b)を強調すると、最近のオペラは、何も難しいこと考えなくても楽しめる。あるいは、演出家の名前で人が劇場に集まる、みたいなことになる。

(「オーソドックスな舞台を知らない初心者に、いきなり読み替えを見せるのは乱暴で不親切だ」という批判があるけれど、実際には、何がオーソドックスで何がマニアックなのか、区別がつかず、先入観のない人のほうが、かえって「演出の劇場」にストレートに反応して、積極的に楽しんでいるように見えます。

いわゆる「初心者」は、(a)「ドラマの現代化」というリクツではなく、(b)演出の virtuosity、要するに良質の見世物に拍手喝采しているのだと思う。それはそれで、アリだと思う。演出の virtuosity は、ヴィーラント・ワーグナーやハリー・クプファーのほうが今どきの「読み替え」より「はるかに深い」、というような、いかにも日本ワーグナー協会の年報で議論されていそうな(笑)作品解釈史の教養を斜めに横切って支持される力を持っていると思う。)

(a)だけだったら頭でっかちなインテリ、(b)だけだったら単なる軽薄、と見捨てられそうなところで、両方併せ持っているから「演出の劇場」は強力だったんじゃないか。「演出の劇場」は、首尾一貫したシステムというより折衷的なご都合主義、よく言えば、器用仕事のブリコラージュな印象がつきまというますが、それは、もともと演出というのがそういう仕事だ、ということもあるし、(a)と(b)を舞台上で機敏に混ぜ合わせれば切り抜けられる、二枚舌が柔軟な強みになる、ということでもあると思います。

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でも、こんな風に演出家においしいところを全部もっていかれて、周りが指をくわえて見ていればいいのか、という思いは、出てきても不思議ではない。

(b)の演出の virtuosity の数々の実例は、見ればスゴイなあ、と思いますけど、これまでに書いてきたように、演出の可能性を見せつけられて、とても勉強になる反面、それをやる(やらされる?)歌手の身になってみろ、みたいなことが起きるリスクが常につきまとうわけですよね。

(だからコンヴィチュニーは、「歌手の信用」を取り付けることを最重要視して、そういう関係を歌手や劇場と取り結ぶことができそうにないミラノやメトを敵視する。)

そして(a)のドラマの「現代化」は、時代のほうが変わっていくとすぐに古くなる、ということはあるけれど、大事なことは舞台芸術に関わる人間が「ドラマを他人事でなく、自分の問題として受け止める」ことなわけで、そのように「ドラマのアクチュアリティに覚醒した人」が、それをどのように実装、提示していくか、具体的な方法は、華麗な演出以外にもありうるんじゃないか、と発想を切り替えたっていいはずだ。

単に(楽譜に忠実で)正確なだけの音、ただひたすらそれ自体として美しい声、というだけでなく、ドラマと向き合ったほうがいい。ドラマと向き合うことで得られるものは大きいのだとして、だったら、音の力、声の力でそれをやってやろうじゃないか、と考える人が出てくるのは、いかにも、ありそうなことだ。

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バロックからロマン派までの「クラシック音楽全盛期」は、コンサート音楽やサロンの社交や室内楽や家庭音楽が、街の中心の広場に教会と並んで建っていたりする劇場を強く意識する時代であった、みたいに言うことは、不可能じゃないと思うんですよ。

というより、西ドイツの音楽史研究が、「時代の社会・文化の中心に劇場があって、その周囲にそのほかの諸々が配置されている」という枠組みで Neue Handbuch der Musikwissenschaft の17〜19世紀の巻を編纂したのと、ドイツが文化政策として各地の公立劇場を重視したのと、「演出の劇場」が栄えたのは、たぶん、同じ時代精神だと思う。

「アウシュヴィッツ以後、もはや、ドイツが“絶対音楽の帝国”、“世界に冠たるシンフォニーの国”を誇るのは不可能である」みたいに2つの世界戦争を反省している感じを打ち出すうえでも都合が良い。バッハ、ベートーヴェン、ブラームスは、もはや、ドイツのナショナリズムの礎というより、世界の共有財産、common practice になりました。これからのドイツは、「音楽の国際連合」に研究・情報の拠点として協力するとともに、国内的には諸都市の連合体として来たるべき再統一に備え、それぞれの都市は、レッシングやシラーやゲーテを範として、「民主主義の学校」というべき劇場を軸とする文化立国でやっていきます、ということだったんでしょうね。

フランスのいかにも中央集権でエリート主義っぽいコンセルヴァトワールとか、世界のヘゲモニーを握って繁栄した北米の工業都市が、バカスカ、シンフォニー・オーケストラを設立する状況との差別化もばっちりである、と。

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でも、イタリアの貴族的人文主義とか、ヴェルサイユの祝祭とか、というのは、「地方都市の優しいドイツ人たち」が守ろうとする劇場共和国とは様子が違っているかもしれないし、そっち方面から対案がちゃんと出てくるのは、面白いことだと思います。

音楽によるドラマ、音楽による演劇、みたいなことを、ワグネリズムとは随分違うやり方で地中海文化圏の人たちが模索するのも興味深い。

12人の優しい日本人 (PARCO劇場DVD)

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「演出の劇場」とは全くなんの文脈も共有していないし、2005/2006年の年末年始、もう9年前の公演ですが、陪審員の討議という「民主主義の学校」っぽいテーマと、12人の役者が2時間でずっぱりという演出の virtuosity があれば(この人の脚本は役者に当てて書くからのだから、ほぼ演出のためにある)、三谷幸喜という演出家の名前で東京と大阪でそれぞれ1ヶ月公演ができて、役者のアンサンブルってのは面白いもんだな、と思わせることができた。(三谷幸喜のコメンタリーが、だらだらしゃべりながら、結構、演出のポイントを語っている。)劇場というのは、そういうところなんでしょうね。なかなか、原理原則を貫く「運動」という風にはならない。